小話「境界」
「探険も良いけど、そろそろ危ないんじゃないかな」
青年が訴え、先頭を行く少女はそれを無視した。両者の真ん中に位置したオムクが、彼、風祭真理を振り返ってみると、青白い頬にはここ数日で見慣れた感もある気弱な笑みが浮かんでいた。
穏やかで、少し押しが弱いけれど良い奴、と言う評判通り、困ったように、半ば以上引きずられているような様子で歩みを進める真理は、しかししっかりとオムクから一歩分の間を取っている。他の同期生たちが気付いているのかどうかは分からないが、意外と強かな人物かも知れぬ、とオムクは見ていた。
境界を見に行こう、と言い出したのは当然の如くアーデリカだった。
それは院と言う特殊な──と言う一言で片付けるには余りに特異な──世界の果て。無数に存在する世界の間をすり抜け移動し続ける院だからこそ目に見て感じ取れる、次元の亀裂。
それは「ドーム」と簡単に呼ばれ、院全体を覆っている。
仮に、院を世界と言う海を航海する一隻の舟と捉えるならば、ドームは院を時空の荒波から守っている薄い一枚の舟板だ。
歩を進めるにつれ閑散とした雰囲気を強く感じるのは、間違いであるまい。ふわりと浮かんだ体を維持したまま、オムクは意識的に羽ばたきを弱めた。
不意に。
急停止と言う表現が当てはまるやり方で足を止めたアーデリカの背中に、オムクは頭から衝突した。大きさこそ赤ん坊程度ではあっても、体の中で一番重い部位が肺の辺りを強かに打ったのだ。双方に衝撃が走り、アーデリカが息を詰めた事が分かった。
行き着いた最も悪い想像に心臓が収縮して、刹那オムク自身も呼吸の仕方を忘れた。
境界はそれが次元の層であるが故に不安定だ。ドームで覆われ維持していると言う事は、裏を返せばほんの僅かでもドームを越せば生命の保証がないと言うこと。
スローモーションのように彼女の上体が押し出され、栗色の豊かな髪が宙で揺れた。反射的な動きで左足が前進する。
間髪入れず、目を見開いたオムクの脇から鈍い輝きを宿した黒皮に包まれる手が伸びてアーデリカの腕を取った。白い制服が皺になるのではないかと思うほど、強く。
一瞬場を支配した緊張感が四散した。
多々良を踏んだアーデリカが呼吸を吐き出し振り返るのと同時に、きつく掴んでいた手が解かれる。
「あ、りがと」
案外痛かったのか、掴まれた二の腕の辺りに片手と視線を向けたアーデリカが、存外素直な礼を口にした。言われた真理の方は、どうしたわけか彼女以上に複雑そうな表情で自分の手──ただし手袋に包まれた──を一瞥し、唇の端を必要以上に持ち上げた。
硬質な声が、どういたしましてと応える。
お互い身体は向かい合っていると言うのに、自分の方しか見ていない奇妙な様子の二人。常ならば観察に回るところだが、今回ばかりはオムクも自分の気持ちを落ち着ける方を先決させた。
「ごめんねリカ」
境界が如何に危険な場所かは院に来て最初に教えられていた。一歩間違えれば大惨事だったと分かるからこそ、肝が冷える。
だが顔をあげたアーデリカは既に明るい笑みを取り戻していた。
「大丈夫よ。結構距離があったし」
その言葉通り、前方を見ればアーデリカが足を止めたのはドームから十歩程手前の地点であった。自分が一番距離を知っていたにも関わらず慌て、皆に心配させたと思うからなのか、彼女は気恥ずかしそうに殊更大丈夫、と繰り返した。
漸く胸を撫で下ろしたオムクと、何時の間にやらまた曖昧な微笑みとを取り戻した真理も、目前に広がるドームへと眼を向ける。
微妙にずれた空間の断面。時空を視る能力に長けた彼らからすると、屈折率の悪いガラス越しに外を眺めているような感覚だ。しかしその景色は一定でない。三人が立つ院と地続きの地面がその先に続いていると言うのに、その上に薄布が被さるような形で無数の世界が重なる。その色彩、そして風景すらも世界の波間を移動する瞬間毎に目まぐるしく変化していく。
そのつもりになれば、幾らか長く──と言っても瞬きを繰り返す間もなく──その場に止まる世界の光景を観察する事も出来たが、余りに無数に分かたれた次元の層に混乱を禁じ得ない。優秀な空間探知能力が徒となり、オムクは船酔いを起こしそうだと思った。
諦めて見上げた傍らの学友たちの感想も、どうやら大差ないようで。
「これが私たちの世界の果て、か」
その声は、先程の真理に似てどこか不要な部位が硬かった。
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