天駆ける騎士の奇想曲
いつか飛び立つ鳥の 1
鳥の声を追い瞳を上げれば、空は碧く、間近く中天から降る陽が世界を光彩で埋めた。一瞬、瞳孔が狭まる感覚がして少し瞼を閉じる。
光は、髪の明るい幾筋かを白銅に染めた。ほうぼうへ撥ねた髪は得難く不可思議な色をそれぞれに宿している。その時、空の果てまで舞い上がった風に吹かれ、鮮やかな銀朱と深い茶褐の毛が手を取り合い踊った。それと同じ容易さで、感受の内に身体を形作るひとつひとつが気体と化し、此処より何処までも飛んでいく。
遠く――遠く、何人も知らぬ世界の果てへ。
「フォウルさま」
夢の飛翔を制したのは、まだ変声を知らない子の透明な声である。
拡散した意思は地に戻り、人の形を取り戻した。肉で出来た自身の器を知覚する。そして猫に似る瞳が世界を映して開かれた。
立つ地は手狭な高楼であった。その楼の欄干、最も天に寄った位置で、彼は鐘楼守を気取るように外界へ身を曝していた。
「なにを見てらっしゃるんですか」
二度目の呼び掛けで、フォウルは背後に目を向けた。その動きに合わせて大気が息を吹きかけたのは、少年の頃に一足踏み入れたばかりの子だ。猫目石の視線より幾らか低い位置にある黒髪が、細波と等しい拍子で揺れる。
フォウルの口許に所以のない笑みが浮かび、彼は子を呼んだ。
「来い、刹」
上げた手の向こうで柔らかな頬が膨らむ。
「そんなこと言って、またおれを巻き込むつもりでしょう」
それは不平と言うには過分な甘えを帯びていた。足りぬ言い分に代わり、遠く微かな雨の匂いを含む微かな風がフォウルの鼻先を掠めた。
成程、昨夜に思色の雨を降らせたのは確かに彼の仕業だった。普段は意識することのない大気、そして土の匂いが雨と一つに交わる。落ちる陽は世界を優しく包み、黄金を抱いた雨粒が光となって融ける。その光景を、フォウルは子に与えてやったのだ。それは同時に、天候に因らぬ雷を互いに分ける事となったのだが。
「良いから」
そんな事は、自分であれ子であれ、構うべきことでない。
「同じものを見せてやるよ」
「え!」
言葉に、多分な笑いの粒子が含まれていることは刹も分かっていただろう。だがその理解は、踊る心を収める役に立たなかった。海底と等しく深い紫紺の隻眼が瞠られ、身体は弾かれるように動いた。
三歩も進めれば空が迎える距離を、刹はまろびながら飛び込んだ。天への境界で危うく揺れる小さな身体を抱き取り、フォウルは唯一人の子供の為の特等席へ導く。
骨張った小さな身体は、子を拾った頃のまま、フォウルの腕の中に収まった。もっとも、近頃は寝る度に大きくなっているようである。人の子の成長とはこのようなものだったかと、彼を瞠目させ、密かな危機感を抱かせるほどに。
風が吹き抜ける。そしてフォウルは無手の左腕を、足下の世界へ向けた。
モノリスの上に作られた立体模型であるようにも見える、これこそが。
「オレたちの院だ」
この高みより見下ろせば、掌の中にも収まるように感じる、小さな箱庭。それは果てない時空の狭間を漂う一艘の舟である。
「おれたちの、家」
鼻先を擽るようにして子の頭が一つ肯いた。そのまま重心に従って揺れる小さな背を胸に抱え直し、フォウルは瞳を細める。彼に代わって、静かな風が子の黒髪を撫でた。
「いや」
短いいらえに、刹が頭を擡たげフォウルを振り仰いだ。
「これは宿木だ」
そして未だ飛び方を知らぬ雛たちの巣である。
院に集った騎士の候補たちも、やがて巣立ちの時を迎え、各々の道を歩き出す。その後ろ姿をフォウルは幾度となく見送った。
鳥は、飛ぶものである。
抱えた子供の背には、まるで空を駆けた名残のように浮き上がる肩甲骨があった。そのことを、子はまだ知らない。
「でも」
ふいに刹は声を上げた。真摯な眼差しがフォウルを射抜く。
「でも、おれは行きません」
返ったのは思い掛けぬ強硬な否定だった。子の親として過ごした歳月の中、数えるほどもなかった拒絶の言葉である。
その時、子の紫瞳に映る自身の姿が、蛍石に似た不思議な光で包まれているのをフォウルは視た。
「刹――」
「猫でも、一宿一飯の恩義って言うものがあるって、イヴ先生が言ってました」
唐突な言葉だった。
「だから、フォウルさまがイヤだって言うまで、おれはお側にいるんです」
騎士の誓いとしては稚拙である。それは寧ろ、雛が親と定めて向ける、その直向きで純粋な希求に近しい。
「そうか」
無為の笑みが頬を緩めた。
如何に懇願され、努められようとも、同じ道を歩めぬことをフォウルは知っている。この道を先に歩んでいた者はいた。いつか受け継ぐ者もいるだろう。ただ、共に歩むことは出来ない。それが彼の道であった。
けれど、併する道はあるかも知れない。いつか子が騎士となり、巣立ちの時にも同じことを願うのであれば、その道を開けば良い。
子の眼差しは明確な応えを期していたが、フォウルは微笑みを刻んだまま口を閉ざした。倣って刹も黙したが、それが本意でないことは明らかだった。軽く唇を尖らせ不本意な沈黙を持て余した様子で視線を下げる。
常ならば背を押してやる。だがその役目を、今は別のものに託す。
――鐘が鳴った。
昼の時を知らせる音は、初め低く、深い揺れを生んだ。それが澄んだ明るい音へ転じ、吹き渡る風に乗って世界の果てまでも響き通っていく。仕舞いにひとつ、鐘は囁きのごとく静かな響きで世界を包んだ。
撞き鐘に促され、子は自身の足で欄干から降りた。そして今度は彼が振り返り、フォウルへ問う。
「お昼ごはんにホットケーキを焼いたんですけど、食べます?」
「食べる」
楼の内へ飛び降りるフォウルを、刹の両手が迎えた。
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