忘れられない旋律@水輪千夜さん

 すらりと背が高く、長い漆黒の髪を緩やかに編み込んだ娘がそっと窓から外の様子を覗っていた。
 大きな瞳がいじらしいほど熱心に1人の人物を追う。よく見ればその瞳は黒ではなく蒼味と紫味を帯びているのがわかる、神秘的な雰囲気の娘だった。
 ぴちちっと鳥の囀りが聞こえると、彼女は宙を振り仰ぎ、片手を差し出した。


 ―――リートが彼女に出会ったのは、ほんの偶然だった。

 その日、リートは刹に本を貸すつもりで迷いの森に足を踏み入れた。
 本は精密に描かれた絵と簡単な文字で綴られた絵本風の図鑑。リートもお気に入りの1冊で、「今度来たときに」と約束をしていたのだ。
 初めは一緒に迷いの森へ向かっていたイクスは、先程どこかの教室の実験の失敗に巻き込まれて焼けこげ、今度は治癒魔法の実験台にされているはずだ。
 何度も行ったことのある道である。迷う心配はさしてなかった。
 そんなわけで、リートは一人で迷いの森へ向かったのだ。

 そもそもの間違いはその愛らしい小動物を見つけてしまったことにあった。
「あれぇ?ウサギさんだ〜」
 白いふわふわの毛玉のようなウサギが、ひげを震わせながら葉を食んでいた。静かな瞳でリートの姿を捉えつつも、まだ逃げる様子は見せない。
「こんなところにウサギさんがいたんですね」
 リートは興味深々な様子で離れたところからそれを眺めた。
 この道を外れたらどんな目に合うかは、一度体験済みである。リートは十分用心していた…はずだった。
「刹さんは知っているのでしょうか、ウサギさん…」
 仲良くなった刹の笑顔を思い浮かべてリートはうっとりした。大好きな人の嬉しそうな顔を見るのは本当に嬉しい。
「このウサギさん、見せてあげたいです…」
 そんな想像をしてほんわか幸せな気持ちになった時だった。

「あ、ウサギさん!」
 ふいにウサギが駆け出した。
 リートの存在を危険と見なしたのか、はたまた別のウサギにしかわからない理由があったのかは知らないが、とにかく、考えるよりも先にリートはウサギを追いかけて走り出していた。

「あれぇ?ウサギさーーん!!」
 しばらく走ってウサギを見失ったリートは、真剣にそう大きな声でウサギを呼んだ。
 迷いの森ではなぜか動物たちも遭難するらしい、と嘘か冗談かと疑いたくなるような口調でロアンに聞かされたことのあるリートは、己の現状を心配するよりも先にウサギが気になっていた。
「どこに行ってしまったんでしょうか…? 迷子になったらかわいそうなのです」
 リート自身が迷子になってしまう可能性があったことに気づいたのは、1時間程ウサギを探し続けて自分が迷子になっていることに気づいてからだった。

「困りました……」
 これからどうしようかとそれほど困っている様子は見せずに考えていた矢先、ちちっと鳥の鳴く声がしてリートははっと顔を上げた。
 この迷いの森で、このような明確な動物の鳴き声を聞くことは、リートにとっては珍しかった。
 上げた視線の先であるリートの頭上には、翼の先端に赤い模様の羽を持った小鳥が、激しく鳴きながら飛びまわってた。
「鳥さんだぁ」
 リートはまぶしそうに空を見上げた。
 そっと指を上に向けると人馴れした鳥らしく、リートの手にちょこんと止まった。
 首を傾げるような仕草をして、盛んに鳴き声を上げている。
「鳥さんも迷子なんですか?僕は迷子なんです。イクスさんや刹さん、今頃心配されてるでしょうか?」
 ほうっとため息を吐きながら小鳥に話しかけていると、今度は前触れもなく宙へ舞い上がった。
「え、ええっと、鳥さん、何処行くんですか?迷子になりますよ〜」
 慌てて追いかけようとした時、小鳥の行く先に人影を見つけてリートは立ち止まった。

「こんにちは」
 すぐにリートは声をかけた。躊躇いはなかった。こんなところにいるのは院の関係者しかいないと思っていたし、迷子の仲間が増えるのは心強いことだと特に根拠もなく思ったのだ。
「……こんにちは」
 驚いたような顔をしてから答えたのは、女性だった。
 リートより年上、20になるかどうかという年格好の女性で、すらりと背が高い。腰まである漆黒の長い髪と、同じ色の大きな瞳。丈の長い院の制服を着ていた。
 近づいてみて、リートは彼女の双眸が異なる色彩を持つのに気づいた。右がやや蒼味がかっていて左は紫味を帯びていた。
 なんだか神秘的な感じがして、リートは少しだけドキドキした。新しい何かを見つけたときの期待に似ている気持ちになる。
 先程の小鳥がすっとその肩に止まった。
「コウヒ」
 彼女は指先で鳥の頭を撫でてやると、小鳥が嬉しそうに頭を擦りつけた。
「あの、僕は迷子なんです。お姉さんも迷子ですか?」
 本を抱え直しながらリートが言うと、彼女はちょっと表情を緩めて首を振った。
「私は、ここで練習していたの…」
 そう言って手に持っていた見たことのない横笛のような楽器を見せられ、リートは期待を込めた瞳で彼女を見上げた。
「わーー、聞いてみたいです!どんな音がするんでしょうか?」
 その満面の笑みに、女性は泣き出しそうな表情からつられたように微笑んだ。

 彼女はとても親切に吹いてみせてくれた。
 小さな横笛は高い高い音の旋律を奏でていく。音色自体も充分美しかったが、表現するのが容易でないほどの複雑で繊細な旋律だった。
 何時の間にか鳥たちが集まり、ウサギやリスが姿を現した。
 リートはそれにも気づかないほど、その初めて聞いた旋律に聞き入っていた。

 笛の音色を聞かせてもらった後、彼女はごく自然にリートに迷いの森の中を案内してくれた。
 空間すら移動してしまうその道なき道を、彼女は迷うことなくしっかりした足取りでリートと手を繋ぎ先導する。
 その道すがら、2人は他愛ない会話をした。
 何時の間にか彼女からは硬い雰囲気がなくなり、小さく微笑みすら浮かべるようになったのに気づき、リートは嬉しくなって沢山の話をした。
「こっちに行けば、フォウル様のお屋敷に続く道に出るわ」
「すごいですねー、どうしてわかるんですか?」
「植物たちに次元の変わり目を教えてもらうの。迷いの森の木々はみんな眠っているから、気をつけないと迷子になってしまうけれど」
「お話しできるんですか!?」
「ええ。植物だけじゃなくて、動物たちとも出来るけど……私にはそれしか出来ないから」
「そんなことないですよ、スゴイと思います」
 リートは心の底から、言った。すると、彼女は「ありがとう」と言って笑ったのでリートもにこにこと笑い返した。
「その笛、いつもここで練習してるんですか?」
「いつもこの笛ではないけれど、練習はこのあたりでしているの。……ここなら誰にも見つからないから」
 その時だけ繋いだ手が緊張を伝えたが、リートは知らない振りをした。なんとなくその方がいい気がしたのだ。

「………!」
 名前を呼ばれた気がして、リートは首を傾げた。
「あの、声が聞こえませんか?」
「そうね、あっちの方かしら…」
 彼女がフォウルの小屋へ向かう道から少しだけ外れて、歩き始める。1つ空間を移動したと思った途端、「リートー!!」とはっきりしたイクスの声が聞こえて、リートは顔を輝かせた。
「イクスさんだ!」
 リートが迷子になって3時間。
 いかに不運のイクスと言えども、リートの後を追ってフォウルの小屋に着くには充分な時間だった。
 まだ到着していないと聞けば、彼が探さずにいられるわけがない。
 無事に出会えることに安堵して、笑顔のまま振り返り彼女に声をかけようとして、その様子がおかしいことに気づいた。
 なぜか顔を赤く染めて、硬直したように立ち止まっている。何時の間にか繋いだ手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
「お姉さんも一緒にフォウル様のところに行きませんか?」
 そう声をかけると、一瞬双眸を大きく見開き、もともと泣き出しそうな表情が本当に泣き出す寸前と言った様子になる。
「お姉さん?」
 さすがに声をかけないわけにはいかなくなり、リートは手を少しだけ引っ張った。
「あ…、私はもう少し練習するから。ここでお別れね、リート君」
 突然早口でそう言うと、手を離してイクスの声がする方向とは逆向きへ後退さった。
「もう迷子にならないようにね」
 それが最後の言葉だった。
 彼女は瞬く間に森の奥へと消えてしまった。
「………??」
 リートは不思議そうな顔で、イクスに見つけられるまでその方向に目を向けたまま立ちつくしていた。


「ああ、それはテンリだろう」
 刹に無事本を渡したリートは、おそらくほとんどの生徒を知っていると思われるフォウルに彼女の話をしてみた。
 すると、すぐにフォウルはそう言っておかしそうに笑った。
「背の高い両目の色が違う女の子。そんでもって楽器が上手。動植物と話が出来る。彩天麗しかいないと思うぞ」
「よし、名前がわかったな。リート、ちゃんと今度、御礼に行かないと…」
「イクス、刹がおやつのお盆を運ぶのが大変そうだから手伝って来い」
 それまで一緒に一部始終を聞いていたイクスを突然そう言って遠ざけると、フォウルはいたずらを思いついた子供のような目でリートに耳打ちした。
「リート、おまえ秘密は守れるか?」
「?」
「あのな、天麗はイクスが好きなんだ」
「僕もイクスさん、好きですよ。ええと…なにか関係あるんですか?」
「ふーん、おまえにはまだわからないか♪ ま、ナイショだぞ、今の話は」
「………?」
 一人で楽しそうに笑うフォウルにリートは首を傾げた。

「一つだけ教えてやろう。天麗はイクスが俺のところに来るのを知っていて、迷いの森のこの小屋の傍で練習してたんだ。遠くからイクスを見ようと思ってな」

 目を瞑れば彼女の吹いた旋律が甦るばかりで、リートの疑問は増える一方だった。


 天麗はドキドキする胸を押さえて、樹の根本に座り込んだ。
 頬が火照っているのがわかり、それを冷まそうと樹皮に頬を寄せた。
 小鳥がさっとその肩に止まり、小さく囀った。
「心配してくれるの、光緋? 大丈夫よ、びっくりしただけだから…」
 遠くからまだ聞こえるイクスの声に耳を澄ませ、目を閉じた。
「きっと、私のコトは覚えてないわよね」
 イクスならば、それが誰であっても同じようにしていたはずだから、特別記憶に留めているような出来事ではなかったに決まっている。
 天麗にとっては、とても忘れられない記憶であっても。
 あの直後に声をかけられたら、知り合いになれたのだろうけれど、恥ずかしくて御礼すら言いに行けなかったのだ。
 それから2年が過ぎて、今では想いだけが募るばかりだった。

「あんな傍で声を聞いちゃったね」
 過ぎ去った過去を思い出すように瞳を細めて、天麗は小鳥に話しかけた。

 ―――彼女がイクスに認識される日が来るのは何時なのか、想いを遂げられる日が何時かは来るのか、それはまだ誰も知らない…。

水輪さんから、暖かく微笑ましいお話を頂きました。
イクスが、こんなに想われている幸せ者で良いのでしょうか。KOC企画にてお預かりしている天麗嬢と釣り合うよう、今後精進してもらわねばなりませんね。
どうもありがとうございました。

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沈黙の形状