味覚事情@水輪千夜さん

 その時、空中テラスではイクスとレイヴ、リート、呼び止められて同席することになった月と天麗が同じテーブルについていた。
 すでにあらかたの食事は済み、レイヴは本を片手に、リートと月もデザートを口にしながらそれぞれ食後のお茶を楽しんでいる。
 未だトレイの上にある食事を突いているのは、遅れてやってきたイクスと、なぜか食べるペースが遅い天麗の2人だけだった。
 それなりに優雅な仕草を保ちながらも気持ちよく皿を空けていくイクスに比べ、天麗は皿の上に重ねられたままのサンドウィッチをフォークの先で物憂げに突いているだけで、食事が進む様子はない。傍には空になったスープ皿が1つある。イクスがいるから緊張して食事が喉を通らない、という風でもなく、天麗はあきることなくサンドウィッチを突きながら、重たいため息を吐いた。
 そのため息を聞きとめて、月以外の全員がなんとなく天麗に視線をやった。
「天麗さん、どうかしたんですか?」
 リートに尋ねられて、フォークの先を眺めたままだった天麗はきょとんと顔を上げ、次いで自分がなぜか注目を集めているのに気づき、うっすらと頬を染めた。
「え、あの、ごめんなさい。私、話を聞いてなくて…」
「なにか心配事でもあるんですか?」
「随分、深刻そうなため息だったが……」
 繰り返したリートに、イクスが食事を進める手を止めて続けながら、天麗を見た。
 まっすぐに視線を合わされて、天麗は増々赤くなってしまい、俯いて再びフォークの先に視線を戻してしまう。
「あの…、なんでもないんです」
「なんでもないって様子じゃなかったが…、まあ、俺たちに言い難いことなら、サルゴンかシュウ教師あたりにちゃんと相談した方がいい」
 言外に自分たちも相談にのれることを漂わせて、イクスは続けた。女性である天麗に対して上げた名前の中にうっかり女性名を入れ忘れている辺りが、いかにもイクスらしい。
「あの、その、本当にたいしたことじゃないんです…」
 言い難そうに天麗は口ごもった。
「天麗さん、大丈夫ですか? 顔赤いです。もしかして風邪ですか?」
「その心配はないだろう、リート」
 トンチンカンなことを尋ねたリートに、それまで傍観者を決め込んでいたレイヴが本に視線を落としたまま、口を挟んだ。
 風邪じゃないの、大丈夫、ともごもごと答えた天麗にリートは「そうですか?」と首を傾げ、イクスもレイヴが言うなら大丈夫だろうと一応安心した。
 なんとなく話し難い雰囲気になってしまい、それぞれが黙ったところで、それまでマイペースにデザートの小さなケーキを食べていた月が、天麗の皿の上を見て言った。
「天麗さん、食べられへんなら残さはったらええのに」
「だ、だって、捨てるのは悪い気がして…」
「それなら気ぃつけはったらええのに」
「うん…、つい忘れてて」
「慌て者やね、天麗さんは」
 話が見えないイクスに、リートがぽんと手を打った。
「天麗さん、もしかして嫌いな食べ物が入ってるんですか?」
「そうなんどす、天麗さん、生野菜が駄目なんどす。サンドウィッチにレタスやキュウリが入ってるから」
「あら、天麗。あなた生野菜ダメだったっけ?」
 テーブルに新たな影が落ちた。振り向くと、コーヒーカップを手にアーデリカが鮮やかな笑みを浮かべて立っていた。
「はい、イクス。渡し忘れのプリントですって」
 一枚の紙をイクスに渡すと、アーデリカは自然な動作で空いていた天麗の隣の席に座った。
「リカ、これはルクティ教師から?」
「ええ。ちょうど仕舞い込もうとしてたところに出くわしたから、預かってきてあげたの。明日に渡せばいいだろうって、思ってたみたいね」
「……助かる」
 プリントを見て眉を寄せたイクスに軽く手を上げると、アーデリカは惰性でサンドウィッチを突いたままの天麗を見て微笑んだ。
「さっきの話だけど。野菜スープとかは平気だったわよね」
「は、はい。その、スープとか、蒸した温野菜とかは好きなんですけど…」
 近距離で見つめられて、慣れてきたとはいえ敬慕の対象であるアーデリカに、天麗は上ずった声で答えた。
 それから、サンドウィッチを突く動作を止めて、ぽつりともらした。
「だって、野菜は生だと苦くて……」
 幼いその言葉に、苦笑とともに空気が和らいだ。
「駄目ですよ、好き嫌いしたら、大きくなれませんよ」
 真剣な口調で言ったリートに、別にこれ以上大きくなる必要はないのでは、とその場にいた全員が密かに思ったが、誰もあえて口には出さなかった。
「そう言うな、リート。こればかりは仕方のないことだ」
 レイヴが顔を上げて眼鏡の縁を指先で押し上げた。
「彼女が野菜を生で食べられない理由は、大方見当が付く」
 そう言われて、当の天麗までもが不思議そうにレイヴを見た。
「植物には食害を防ぐ手段として、いくらかタンニンやシュウ酸カルシウムなどの、いわゆる“えぐみ”や“渋み”を生物の味覚に感じさせる成分を含んでいる。野菜と一般的に言われているのものは、その量が比較的少ないものや、そのように改良されたものだ」
 すらすらと暗唱するかのように紡がれるセリフに、リートがよく分からないと言いたげに眉を寄せた。イクスはつい、まじまじとフォークの先端に刺したレタスを眺めた。
「野菜を生食するのに慣れている我々にとっては感知されない微量だが、食べ慣れていない彼女の味覚にはおそらく引っかかるのだろうな。食べ難くても仕方がない」
 その話を聞いて、月と天麗がそうなのかとひどく感心して頷いた。
「これらは茹でたり、アルカリ性の水溶液に浸すことで取り除くことが出来る。だから加熱調理したものは平気なんだろう」
「ああ、そうか。つまり“あく抜き”ね。なるほど」
 アーデリカが料理をする人間らしい感想をもらし、レイヴは再び本の上に視線を落とした。
「それじゃあ、仕方ないですね」
 リートが言えば、
「そないに残すのが勿体無いなら、言うてくれたらうちが食べたのに」
 と月が言った。
「うん…、とりあえず、食べられるところは残さない方がいいわよね…?」
 その横で少し躊躇いつつも、天麗が決心したような真剣な表情でパンの間からレタスやキュウリをフォークの先で引きずり出していく。
「そうやね」
 月が頷き、それから「アイスクリーム持ってきましょ」と立ち上がった。

「ね、レイヴ。野菜の話だけど、フォウルや刹ちゃんみたいに野菜食べたがらない人間にも、当てはまるの?」
 何か考え込んでいたアーデリカに尋ねられて、レイヴは本から顔を上げずに答えた。
「……味覚が過敏である可能性はあるが、一概には言えないかと。においや食感が駄目だと言う野菜嫌いも、世の中にはいる」
「そうね、そして食わず嫌いも、ね。……ふーん、少なくとも加熱調理すれば、体質的に駄目でも問題なく食べられるのよね?」
「だと思うが」
「そう、ありがと」
 気合を入れて、不敵な微笑とともにアーデリカは立ち上がった。
「リカ?」
「アーデリカさん?」
 奇しくもイクスと天麗の疑問符を伴った声が重なった。
 2人は一瞬顔を見合わせたが、すぐに天麗は赤くなった。不自然なほど慌てて視線をアーデリカに転じてしまう。
 その様子に、知り合って日が浅い上にひょっとしたら嫌われているのかもしれない、と勘違いしているイクスが少しだけ傷ついたような表情になった。
「フォウルのトコのメニュー、いい加減にどうにかしようと思ってて。理屈攻めでいけば、ちょっとは効き目がありそうでしょ?」
 アーデリカは指折りメニューを数えながら、かばんを手にする。
「それじゃ、私もう行くわね。あなたたちもあんまりのんびりしてると次の授業に遅れるわよ」
 颯爽と立ち去るその姿を、なんとなく見送っていたテーブルに、戻ってきた月が「どうかしはったん?」と不思議そうに呟いた。

「でも、これでフォウル様も刹さんももっと大きくなれるといいですねぇ」
 デザートを食べていたたために静かだったリートが、笑顔でふいにそう呟いた。
 テラスのどこかで、誰かが吹き出すのが聞こえた。

水輪さんから素敵な小説を頂きました。今回は天麗嬢がイクスと友人関係を築いているのが嬉しいですね。
どのキャラクターも生き生きと描かれる水輪さんの小説を堪能させて頂きました。本当に有難うございました!

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沈黙の形状