未知との遭遇@右己さん

「かわいいですね」
 不意に後ろから声を掛けられ、黒髪の少女は思わず振り向いた。
 振り向いたそこには、彼女の肩越しに手元を覗いている、同じく黒髪の少年が、「ニコニコ」と表現したいような笑顔で立っていた。
 この顔は何度か見たことがある。彼は院内でもかなり目立つ人間の多い、「あのクラス」に在籍する、自分と同じ一年生の学生のはずだ。
「それ、鳥さんですよね。お上手ですねぇ」
 ほんわりとした笑顔にあつらえたようにぴったりなほんわりとした声で、少年は彼女の作品を誉めてくれた。
「おおきに」
 少女が深い青碧の瞳を細めてにこりと微笑み返し、彼の賞賛の言葉に応えると、彼は青緑の瞳をぱちくりとさせた。
 自分の話し方がどうやら一般的ではないということは、院に来た当初から気づいていたことで、この少年に限らず始めて聞く者は少々戸惑った反応を取るのが常だった。
 小さいころから慣れ親しんだ自国の言葉はあまり一般的なものではなかったらしい。
 彼女の世界には、他の世界という概念が全くなかったこともあり、院に来た当初は毎日がカルチャーショックの連続で、尽きることのない好奇心が不慣れな環境への不安に勝っていたが、環境や授業にも慣れ始めた今では、時として生まれ育った故郷のことが思い起こされる。
 いわゆるホームシック、もしくは五月病の軽い兆候に過ぎないのだが。
 だからかもしれない。授業が終わった後も席を立たず、人もまばらな教室で半分無意識のうちに幼いころによくした遊戯に没頭していたのは。
 色紙を折りたたんで、複雑な形状を作り上げるこの作業が子供のころは大好きだったのだ。もっとも、今は色紙の代わりに書き損じの紙を程よい大きさにして代用品にしていたが。
 少年は彼女の座る席の横に回ってきて、紙で作られたその鳥を興味深げに見た。
「これ、白鳥さんですか?」
「鶴…どす」
「つる?」
 彼女の故郷では極々知られた鳥なのだが、少年のボキャブラリーにはない単語だったらしい。
 文化間の知識や意識の相違は、時として意思の疎通を困難にさせることもあるが、新鮮な驚きを与えてくれる。
 少年に鶴という鳥のことを説明しようと思って止めた。それはこの遊戯の代表的な形状ではあるが、落ち着いた風情をもち、端正に佇むイメージの強い鶴を象っているようには到底見えず、むしろ翼を優雅に広げて大空を羽ばたく白鳥の名を冠するに相応しいように思える。そもそも、物事にはあまり拘らない性質の彼女である。
 代わりに彼女は、飽きずに紙の鳥を観察している彼にこう言った。 
「気に入りはったん?他にも色々あるんどすえ」
 好意的な笑顔を浮かべて、柔らかく言ってみると、少年の瞳が輝きを増す。
 幼いころに教わったものや、彼女自身の創作も含めて、紙という二次元的な材料で次々と三次元の造形を生み出していく。
 手品でも見るような顔つきで真剣に彼女の手つきを観察していた少年の目の前に、やがて十個あまりの作品が並んだ。そのうちの幾つかには彼女の手によって簡略な目や鼻が描かれていた。 
 少年は目を輝かせてそれらを一つずつ手にとって眺めた。
「ウサギさん、キリンさん、これはお花ですよね、こっちは、えっとカメさん」
「これは犬、ネコ、梟、金魚に鯉、船…」
 小さいころはもっとたくさん知っていたのに。
 時間をかければ思い出せそうな気がしたが、記憶の中の十数年間使っていなかった部分の回路を開くのは、時間と精神的労力のかかる作業だろう。
 それでも、今手元にある記憶の分だけでも目の前にいる少年を喜ばせるには十分だったようで、彼女は満足した。
 かけらの邪気も感じさせない嬉しそうな笑顔で彼は言った。 
「僕、こんなの初めて見ました。院では僕の知らないことがたくさんあって、いろんな人がいろんなことを教えてくれて、嬉しいです」
 それについては、彼女も同感である。
 自分の生まれた狭い世界で、少数の大事な人たちとつつましく健やかに暮らしていくのは、とても幸せなことだとは思ったが、それはついに広い世界を知るという誘惑には勝ち得なかったのだから。
「ええ、うちもそう思いますえ。もっと多くの人とお話して、多くのことを知りとおす」
 静かに、しかし知らず知らずのうちに熱をこめてそう言った。
 少年は微笑もうとして、あっと声をあげた。
「どうかしはったん?」
「すいません。僕、ルクティ先生に呼ばれていたんです。教員室に行かなくちゃ」
 慌てている割にどこかのんびりとした雰囲気を漂わせたまそう言うと、少年はくるりと回れ右をした。
 と思うと、回れ左でくるりと彼女に向き直る。
「えっと、ボク、リートって言います。ルクティ先生の教室なんです」
「うちは、月と申します。ユ=ノ教師の教室に所属してます。どうぞよろしゅうに。」
 そう言って、月は折り紙のうさぎを差し出した。
 その出来栄えが何だか彼に似ているように思えたから。
 つきさんですね。にっこりと笑って、リートは紙のうさぎを受け取った。
 黒い髪と緑の瞳をもった少年と少女は、互いに丁寧に別れを告げ、少年は走って――室内の移動に無理の無いスピードでだが――教室を出て行った。
 月は雑多な動物園のようになった机を眺め、気づかぬままに微笑みをうかべていた。
 そう、自分には知るべきことがたくさんある。
 出会うべき人がたくさんいる。

 あの日、彼女の前に現れた猫目石の目をした男は彼女に院に来ないかと言った。
 突如開かれた、自分の全く知らない世界への道は、この上なく甘美で、若い彼女の感情を刺激した。それは、使命感や、子供らしいヒロイズムだったかもしれない。それとも、他者とは違う、選ばれた存在であるとの優越感の表れだったのかもしれない。
 しかし何にせよ、「“世界”が自分を必要としている」という彼の口説き文句は何よりも――得難く尊い平穏な日々よりも――力強く、彼女を惹きつけたのだった。

 騎士の卵にさえなりたての彼らには、世界に望まれる立派な騎士となるために、まだまだこの院で、知るべきこと、学ぶべきことが、数多くある。
 そんな夢と希望にあふれた新入生たちの、これはささやかな、ささやかな一幕。

右己さんから、KOCに参加頂きました月嬢のお話を頂戴しました。
実はこのお話のメール本文にはおまけが付いていました。ご許可を頂けましたので、早速そのおまけ話を下記に掲載いたします。有難うございました!

 次の日、月の前に現れたリートはどこから持ってきたのかタッパを持参してきた。
 昨日のお礼だと言って、それを彼女に差し出す。
「ウサギさんですよ。」
 そう言って手渡された容器の中身はリンゴ。
 八等分にされて芯を切り取られたその果実は、残された赤い皮がウサギの耳のように切れ目を入れられている。
「どうも、おおきに」
 初めてみる形状のリンゴに、彼女の新鮮な驚きはまた一つ数を増やしたのだった。