Who are You?@右己さん
―――誰彼刻(たそがれどき)
夕方、暗くなったために相手の顔が判別できず、「誰そ彼(たそかれ)」、つまり「あなたは誰か?」と聞く意。一般には黄昏(たそがれ)、と表記する。
時は夕暮れ時、日没まで後十数分の猶予、と言ったところか。
院の授業の一環である実習のために、院を離れてとある世界に来ていた詩乃は、暗く人気のない林の中を歩いていた。
全てを茜に染め上げようとする陽光を拒んで白金にきらめく髪を背に流し、慄然と一人進んで行く。
無事に任務は終えたのだが、今回のパートナーとして共に実習に来ていたラメセスと、はぐれてしまったようだ。
そのような時は、転移してきた場所で落ち合うということは予め打ち合わせてあった。
――早く合流して帰らなければ。
あたりが暗くなるのに比例して、気持ちが焦っていくのが分かる。同様に歩みも早まっていく。そして、戻っているつもりで進んでいた道が、いつのまにか見覚えのないものになっているのに気づく。なんとか林は抜けたようだが、暗いために視野が不自由なのと、焦燥のために何処かで間違えたのだろうか。
不安と焦りの色で深みを増した青玉の双眸は、その道に見覚えの無いことを認識していた。
しかし、何故か足が止まらない。方向としては正しいと思われるほうに、詩乃は一人黙々と歩いていった。
地平線が見えるような草原。太陽は、大地の輪郭に隠れかけている。
世界がゆっくりと暗闇に沈む。全ての物に染み込むような闇。
夜が怖いわけではない。
しかし、時々、自分がひどく小さく不安定な存在であるような気になる。
――子供じゃあるまいし。
彼は、歩を緩めないまま自嘲的な笑いを漏らした。
そう、彼は成熟した大人とは言えないかもしれないが、小さな子供ではない。少なくとも小さな、か弱い、守られるべき存在ではない。そう、思いたい。
しかし、夜の暗闇は苦手なのだ。
どこか、異世界につながるような闇が。拠りどころの無い感覚が。自分が暗い世界の中でたった一人になった気がする。
昼と何が違うというのだ?そう、おそらく、人など元々不安定で不確かな存在なのだ。
一人では、その存在もおぼつかないような。
自分の存在は、一人では立証しきれない。
「人は一人では生きていけない」と言われるのは、そういうことかもしれない。
誰でもきっと、自分を確認させてくれる何か、肯定してくれる誰かを必要としている。
だが、闇は、自分と世界を分断する。
無意識のうちに歩みが速まる。足をとめた瞬間に、闇に呑まれそうな気がした。
しかし、闇の中を進めば進むほど、その闇は濃く、重く、密度を増していくように感じられる。
質量を持った闇が、足にまとわりつく。
――嫌だ。不快だ。
しかし太陽は薄情に、その光量を減らしていく。
暗くなる。昏くなる。冥くなる。
何か足元がおぼつかない。夢の中にいるようだ。自分は何処へ向かっているのだろうか。
――きっと…この闇の中を歩いていたら…此のまま…何処かへ――。
不意に、前方の闇が歪んだ。
――何か、いる。
闇の中で光を求めて見開かれていた目が、更に一段と大きくなる。
いつのまにか足は止まっていた。そしてもう、動かない。
声を出そうとしたが、彼の意思に反して、渇いた唇は、言葉を紡ぎ出さない。
――何かが、誰かが、闇の中から、来る。
夢の中のような、現実感のない恐怖。
「だ…れだ…。」
やっとのことで、かすかに掠れた声が出た。
「詩乃。」
聞き慣れた声。相手が携帯用の灯りを燈して掲げると、闇の中に見慣れた相棒の顔が浮かぶ。
怖い夢から目覚めたかのように、急速に現実に引き戻される。
「ラムス…か…。」
暗くてよくは見えないが、声を聞けば彼の独特の闇に溶け込むような金髪も、漆黒の闇の中でも鋭さを失わない赤い瞳も容易に思い浮かべることができる。
安堵の溜息をついて、詩乃は肩の力を抜いた。
自分の冷や汗で、背中が冷たくなっているのに気づく。
平静を装ってはみたが、みっともない姿を人に見せたのが気恥ずかしい。取り乱した自分が情けなく思えた。
「戻るぞ。」
ごく簡潔にそう告げると、ラメセスは詩乃に背を向けて歩き出した。
気がつくと、既に太陽はこの日のこの地への光の供給を完全に打ち切っている。
いつもとなんら変わらないラメセスの後姿を見て、詩乃は思わず呟いていた。
「お前には、無いだろうな。」
「なにがだ?」
彼の小さな、微かな呟きを聞きとめたラメセスが、振り返って当然の質問を返す。
返答を予想していなかった詩乃は、少々戸惑った。
「その…、夜が…暗闇が苦手だとか…、嫌いだとか…。」
「何故だ?」
この男がそんなものを気にするわけが無い。むしろ、暗い方が煩わしくなくて落ち着くのではないだろうか?
「…いや、なんでもない、忘れてくれ。」
「わかった。」
あっさりと言ってラメセスは、再び踵を返して進み始めた。
ふっとため息を漏らして、詩乃は後に続く。
十歩も歩かぬうちに、ラメセスは前を向いたまま口を開いた。
「暗いな。」
「ああ。」
「暗いのが、苦手なのか?」
そうかもしれないが、素直に認めるのも癪に障る。
詩乃は聞こえない振りを試みたが、知ってか知らずにかラメセスは続ける。
「別に、何も変わらないだろう。ただ、ものが見えにくくなるだけだ。」
わかっている。その通りだ。
「朝まで待てば、明るくなる。」
…同情でもされているのか? この男は自分に気を使っているのだろうか…? いや、馬鹿にされているような気もする。
「明かりを燈せば、ある程度までは見える。」
「〜っ!そんなことはわかっている!もう行くぞ!!」
ばつの悪さに耐えかねた詩乃は、精一杯に歩みを速めてラメセスを追い抜いて先を行こうとした。が、彼の横をすり抜けた瞬間、進行方向と逆に後ろから手首を引っ張られ、危うく転びそうになり、咄嗟に何とか踏みとどまる。
「そっちじゃない、向こうだ。」
ラメセスは、詩乃の右手首を掴んだまま歩きだした。
母親に手を引かれる幼子のような扱いは気にくわないが、こう暗くては、はぐれないという自信もない。仕方なく、黙って足早に進むラメセスに何とか追いついていく。
詩乃は闇に浮かぶ、ラメセスの右手にある灯りをずっと見つめていた。足元は何だかまだフワフワとしておぼつかない感じがしたが、掴まれた手首だけが、熱く、現実味を持っていた。
目的の場所まではあと少しだ。自分は随分と間違った方向に来ていたらしい。来たときよりも帰りのほうが確実に時間がかかっている。
冷静になってみると、自分が随分焦っていたのがわかる。重要なことを忘れていた。
詩乃は何だか笑いたいような気分で、自分の手を掴んだまま押し黙って一歩先を歩いていた相棒に話し掛けた。
「ラムス。この辺りの気候が少し特殊なのを知っているか?」
「いや、知らんな。」
訊くまでもない。どうせそんな予習をしてくるような奴ではない。
「この辺りは、高緯度のために夏は夜の時間が短いんだ。一日中日の沈まない白夜と言う現象が起こる時もあるらしい。今の季節なら、完全に暗いのは二時間くらいらしいな。」
ほう、と、さして興味もなさそうな口調でラメセスは相槌を打った。
もうしばらくすれば、朝日が昇り始めるはずだ。
さっきまで、あれほど自分を不安にさせていた闇の世界が、早くもあっさりと幕切れの気配を見せたことに、また笑いたい気分だった。
軽い気持ちで、一つ提案をしてみる。
「もうすぐ日の出だ。しばらく待って、見ていかないか?」
「わかった。」
了解、というより了承という返事をして、ラメセスはその場に腰をおろし、足元に灯りを置く。
自分の意見があっさり通ったことを少し意外に思ったが、詩乃も彼にならい、その隣に座った。
闇に慣れた目は、僅かな明りでも、ラメセスの横顔をとらえることができた。
返事は素っ気無い割りに、律儀に起きたまま、日の出を待つのに付き合ってくれているのが何だか可笑しい。
詩乃は目を閉じて、やがて訪れるはずの、夜から朝への移行の情景を思い浮かべる。
漆黒の空は、暗い紺碧へと変化し、朝陽は闇をゆっくりと侵食し始めるだろう。
太陽は再びこの地とこの地に住む者達にその恵みをもたらすべく、活動を開始する。
世界はまた、光に包まれる。
――その時、彼の隣にいる人物の名は、もはや尋ねる必要も、ない。
【完】 戻る
右己さんから素敵小説を頂いてしまいました。
今回は詩乃視点と言うことで、右己さんがお気に入りの詩乃をどう動かして戴けるのか楽しみだったのですが、迷子とは! 想像外の方向から始まって、またまた楽しませて頂きました。