紫煙の軌跡＠右己さん

　もうすぐ奴が来る―――。
　“院”史上屈指の能力者と謳われる、ラメセス・シュリーヴィジャヤには、わかる。
　あと十数秒もすれば、その人物が目の前にあらわれることが。
　そして彼が自分の行為を目にすれば、お節介にも自分を咎めるであろう事も今までの経験から予想がついた。
　咎められたところで、どうせ気にもかけないのだから。
　ラメセスは、闇に向かって大きく紫煙を吐き出した。

　微かな煙草の香りから、彼がそこにいるであろう事は、ひとつ前の角を曲がる前から気付いていた。
「ラムス」
　詩乃は、暗闇の中で壁を背に座って煙草をくゆらす相棒の姿を確認して声をかけた。
　闇と同化する黒髪に相反して、微かに月光を反射する金髪を手がかりに慎重にその距離を狭める。
　煙を意識して、詩乃は少し距離を置いてラメセスの左隣に腰を下ろした。
　来訪者の存在など気付いていないかのように、ラメセスはそちらを見ずに闇の中に紅の視線を漂わせている。
「悪癖だな。何故こんなものを…」
　あからさまに嫌悪感を顔に出す詩乃におかまいなしにラメセスは紫煙を吹く。
　風のない夜の空間に、煙は留まりゆっくりと流れる。
　詩乃は暗闇に漂う煙に目を奪われた。
　火と水と、煙の動きには、不思議と人を惹き付けるものがある。
　漆黒に浮かぶ紫煙はその名の通り、微かに、淡く、紫。
　不定形のそれは、夜の闇に妖艶に揺れ、儚くかすれて、闇に溶ける。
　ゆらめき、たなびき、たゆたう。
　月明かりの中に見る淡い淡い紫の煙は、幻想的で、妖しく、魅惑的で、美しく―――。
　突如。
　左の肩越しに手が現れた。
　いつのまにか自分の右隣に接近していたラメセスの大きな左手が、詩乃の鼻を強く摘んだ。
　同時に、口は右手に塞がれている。
　詩乃は反射的に思わず息を吸い込んだが、酸素の変わりに供給されたのは、ラメセスの右手の指にはさまれた煙草の発する煙。
「ふぐっ！ げほっぐっ…！ げほっ！ けほけほっ！ けへんっっ！！」
　大仰に咳き込む詩乃を横目に見ながら、ラメセスは悠然と喫煙を再開していた。
「ラムスっ！！ 貴様いきなり…！ ぐっ…けほっ！ …何をするっ！！」
　事も無げに煙草を吸い続けるラメセスの姿を見て、涙目で激昂する詩乃。
「よい勉強になっただろう」
　唇だけで皮肉な笑みを形作り、ラメセスは悪びれた様子も無く言い放った。
　ラメセスの台詞にさらに怒気を高めて、詩乃はその場を離れるつもりで勢い良く立ち上がった。
「まったく…！ こんなものを好き好んで吸う奴の気が知れん！！」
「俺は」
　と、一息煙を吐き出してからラメセスが言う。
「こんなものに理由をつけたがる奴の気が知れんな」
　どこか達観したようなラメセスの声に、詩乃は何か急に毒気を抜かれてしまう。
　こちらを向かず、ただ前方の闇を見据えるラメセスを見て、詩乃はその視線を追った。
　紅と蒼との視線は、漆黒に浮かぶ紫苑に交わる。
　神秘的に優しく揺れる煙を見つめる穏やかな数秒。
　形を持たない可視の気体は、やがて儚く霧散する。
　もう一度ラメセスに視線をもどすと、彼の双眸は自分に向けられている。
　常よりも何処となく穏やかに感じられる紅の視線に、詩乃は自然と優しい蒼を返していた。
　しかし、怒りに任せて立ち上がった手前、もう一度彼の隣に座り直すわけにもいかず、
「理由も無いなら、あまり吸わないほうがいい。…身体に悪い」
　静かにそう言うと、詩乃はラメセスに背を向けて来た方向に戻り、闇の中に消えていった。
　後に残され、再び一人になったラメセスは、手にした煙草を一息吸い込む。
　そして、少々不快な味の混じるくらいに短くなったそれを火も消さずに放った。

　―――彼のかつての同居人なら気付いただろうか。
　昔と比べて、明らかに吸う機会も本数も減っていることを。
　いつからか、おそらく、相棒と言える人物と出会ってから。
　もちろん、その理由は何なのか、それが何を意味するのか、突き止めるつもりなどラメセスにはさらさら無いのだけれども。
　唯一つ、確かなことは、彼はすでに次の煙草に火を点ける気にはならなくなっていた。

　そして。
　ラメセスにはわかる。
　彼の相棒は、今日もまたルームメイトと諍いを起こして部屋を飛び出て、自分の部屋に来たのだろう。
　部屋に鍵が掛かっていたので、自分を探しに来たのだ。
　ラメセスは立ち上がった。
　部屋に戻ってドアを開けてやらなければならない。
　手間の掛かる彼の相棒。
　これだから、おちおち煙草など吸っている暇などない。

　多分、きっと、それだけのことなのだ―――。

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右己さんにかねてからお強請りしてた詩乃とラメセスのお話を頂きました。どうも有り難うございました！
それにしてもラメセスの吸っている煙草は重そうなので、詩乃の胃が気遣われます……。