「カイ」
 採点途中のプリントから顔をあげたカイ──勿論彼個人としては顔も上げたくなかったのだが、名指しで呼ばれて無視するのも大人気あるまい──はその眉を蹙めた。
 天敵“白”フォウルの顔が窓からにょきりと現れていたから、である。
 続いてよっこらしょ、と誰も口には出して聞かない実年齢が知れるかけ声と共に、身体を屈めて入ってくる。
 他の教師は慣れた様子で挨拶など交わしているが、カイの眉間に刻まれた皺は深まるだけだ。
「貴様は扉から入れないのか」
 鳥や猫じゃあるまいし、と愚痴るカイの前で、当代一の騎士はなんだ、と笑った。
「リカルドの精霊とかここから出入りしてるじゃん」
「人としての尊厳を考えろ!」
 そもそもここには彼に面と向かって注意をする人間が少ない。だからこんな素行が許されるのだ、と元凶である組織図の変革を心に決め、カイは三十二秒無駄にされた時間を取り戻そうと机上に顔を向けた。
「人が折角訪ねてきたのに」
「何の用だ」
 なるべくならば早く用件を済まして帰って欲しい。そう強く願いを込めて──思わず手も力が入ってしまったのか、必要以上に力強くバツを付けてしまった──言うと、フォウルは明るく告げてくれた。
「あ、お前のとこのシィンが救護室担ぎ込まれたから知らせに」
 たから、の辺りで椅子から立ち上がったカイの勢いに、フォウルは胸を反らせた。
 すぅと空気が吸い込まれる。
「それを早く言わんか!」
 きぃんと鳴り響いた音。咄嗟に耳を塞いでやり過ごした人々──流石は教師たちである──はしかし次の瞬間、神業の如き勢いでプリントを仕舞い、茶器を流しに出して、尚かつ外出中の表示ボタンを忘れず押して出て行ったカイの姿に微笑んだ。

 情報の早い人と言うのは、いるもので。いや正確には情報が早いのは一人だろうが……まあ、そこから広まる早さと言うのは侮れないもので。
 肋骨に軽いひびが入って救護室へ運ばれたシィンの所に、教室長以下友人が揃ったのは、そう遅いことでもなかった。
 世話焼きの好きな友人がこんなに沢山いて仕合わせだなぁ、と感激屋の彼が思ったかどうかは定かでない。
「良かったな、後の授業がなくて」
「ひびくらいなんだ。鍛え方が足りないぞ」
 ──あまり感激出来ない慰め方である。
 取り敢えず、シィンがホリィ教師から絶対安静だと言われて辛い状態なのは確かだった。
 勿論、瞬時にだって傷を癒すことは可能だ。検診ではシィンに如何なる術や薬、技術を使っても拒絶反応は出ない事が確認されている。だがそれ程の緊急性もなければ、各人にあわせた自然治癒に任せるのがホリィ教師の方針だった。
「すまん、まさかあれが決まるとは……」
「いいって」
 善良な顔を痛恨の念に歪めた傍らのイクスこそ、シィンを打ち倒した本人である。
 怪我をしたりさせたり、と言うのは初級生の内はかなりの件数に上るもので、現にイクスとて救護室の世話になったことが皆無ではないのだけれど。ここまで彼自身が相手を傷付けてしまう事はなかった。
 何度目かの陳謝にひらりと手を振ると、はぁ、と天井に向かって息を吐くような様子でシィンは言葉を吐いた。
「まさか逆胴とられるなんて、こっちこそ油断してた」
 普通、胴とは右側を指す。右利きの人間は剣の鞘を左に挿すので、そこを斬ることは出来ないのだ。余程綺麗に一撃を入れなければ、左側の胴──つまりは逆胴を取ることは難しい。
 明確な力量の違い。
 イクスは強くなった。ラメセスが一足先に上級生になってから、それを追っているかのように。
 以前まではそれ程の格差を感じなかった筈だったけれど、とシィンは顔を覆った。
「カイ教師に会わせる顔がないよ」
「良く判っているな、シィン・アブロード」
 よく聞き知った声が割って入り、救護室は水を打った。
 学生たちで塞がれた救護室に、教師カイ・ハザードが歩行の手本のような動きで入ってくる。身を起こそうと軽く身動ぎしたシィンを抑え、カイは寝台の枕元に立った。背を姿勢良く伸ばし、深い色の瞳でシィンを見下ろしている。
 子供の頃から聞かされていた。
 それは王冠を戴く至高の色。
 息が苦しくて、シィンは眼を瞑るとその色を追い出した。
「……すみません」
「なにを謝る」
 謝罪が自然と口をついて出ただけだ。
 それが分かっているのか、聞いたもののカイは応えを待たなかった。無駄な事を口にした、とくらいは思っていたかも知れない。
「大した怪我ではない。少しばかりのひびでホリィ教師の手を煩わせるなど恥と知れ。それと」
 淀みなく紡がれるはずの言葉が、ふと切れた。
 開かれた新緑色の瞳の前で、カイは眼差しも優しく頬を持ち上げた。
「カルシウムでも摂れ」
 至極照れ臭そうな敬愛する師にシィンは元気よく返事を返し、見舞いの級友たちの笑みを誘った。

「カイ」
「扉から入れと言っただろう!」
 にょきりと机の引き出しから出てきたフォウル──空間制御の応用技だと思っても心臓に悪い──の頭を思わずヒステリックに揺さぶってから、カイは荒げた声と動悸を必死に沈めた。
 どっこいしょと言うかけ声と共に、机から身体が現れる。
 正直、とんでもなく驚いた。
 視界の端に、フォウルが出現する際に下敷きにしてよれ曲げたプリントが写ったが、カイは未だ激しく動く心臓を落ち着けるのに忙しく、今回に限り見逃すことにした。
「用件は」
「ん、お前のとこのシィンなんだけどさぁ」
 またなにかと眉を顰めたカイに、フォウルが軽く笑って言った。
「牛乳の飲み過ぎでハラ壊したって知らせに」
 折角怪我は治ったのに、また救護室で看病されてるぞ。と告げるその顔は、不謹慎にもどこか楽しげに見える。
 ……なんたる不名誉。
 この事件と先日の自分の言葉は何の関連性もない筈だ、と自らに言い聞かせつつ、カイは上着を掴むと救護室へ向かって行った。