はさみ

「ハサミが欲しい」
 高い事務処理能力を備えた院生として評価され、院内流通物資に関する事務方の一人として任に就いたばかりのサラ・フェンの前に現れたのは、これ以上不機嫌な表情にはそうそうお目にかかれないと言わんばかりの顔の青年だった。
 その目立つ銀髪を見たことがあると思いながら名を思い出せないサラに代わって、手元のモニターが青年の所属教室と氏名を提示する。身に着けたシリアルプレートに反応して照合を行ったのだ。それに視線を落としたサラは、ああ、と納得して改めて青年を見やった。
 ベーギュウム教室のバンハムーク。
 前期から教室長。その成績は優秀だが人間関係の構築に問題あり……と噂されている。
 以前はサラ自身も彼と同じく学生として席についていたが、言葉を交わしたことはなく、何度か見掛けた程度の仲だった。それはつまり、今初めて彼がバンハムークと呼ばれる青年だと知った程度だ。それから、こうして間近で会うと少し首が痛くなりそうな長身だとも。
「差し上げるのは構いませんけれど、支給分はどうされたんです?」
「切れなくなったのだ」
 端的に答えると、バンハムークは手にしていた荷をサラに差し出した。かちゃりと金属が触れ合う音がした事に気付いて、サラは受け取った荷を解いてみる。
 と、中から数本のハサミが出てきたことで、彼女は困惑すると、相変わらず不機嫌そうな色を隠さない青年を見上げた。
 すべてがすべて、切れなくなったと言うのか?
「なにを切ろうとしたの?」
「髪を切った」
 また端的に直立不動のまま返された答え。サラは驚くと彼の背を覗き込んだ。
「まぁ……」
 正面からは気付かなかったが、サラの記憶では腰まで伸びていた筈の銀髪が肩の辺りまで短くなっていた。ひょっとするとそのせいで、名は元より知らないとしても、何処で会ったかなど思い当たらなかったのかも知れない。
 粗っぽく切られた跡までしっかりと残る毛先に言葉がなくなった。
 バンハムークも自分から話すのは苦手なのか、あてられる視線に一瞬居心地の悪そうな様子は見せたが、じっと口を噤むと黙り込んでいる。
 暫く経って、サラは職務を思い出した。
「まぁ、ごめんなさい」
 物も言わず他人の髪を見ていた事を恥じらいながら謝辞するサラに、バンハムークは変わらぬ顔──あるいはこれが地なのかも知れない──で応じる。
「それで、ハサミは貰えるか」
 それに頷きを返してから、しかしサラは余計かと思いつつ一言告げることにした。これは事務としての業務は逸脱しているが、言わずにはいられなかったのだ。
 つまりこう言ったのである。
「でもバンハムーク、髪を切るつもりならば髪切りハサミや梳きバサミを使った方が良いと思うのよ」
 その言葉に応じて、不機嫌な顔がサラを見下ろした。

「よくあの仏頂面に言えましたね」
 後日、バンハムークの後輩にあたる少女が忌憚なく驚いてみせた事に、サラは少し困ったような笑みを浮かべた。
「だって……男の子らしいって言うのかしら、豪快な切り方なんですもの」
 いくら普通のハサミで切ったにしても問題がある程度に。
 声が聞こえる距離ではないだろうが、少し先で少女を待っているバンハムークが自分に向けられた視線に気付き、軽く頭を下げた。同時に綺麗にカットされた銀髪が揺れる。
 その仏頂面を少し和らげれば人間関係も少しは旨くいくだろうに、相変わらず眉間に皺が寄っているのが可笑しい。もっとも柔らかな表情の彼と言うのも、なかなか想像出来なかったけれど。
 そんな事を口にする少女がふと、声を上げた。
「あれ、でもハサミが良くったって先輩が切ってたら無駄なんじゃ……?」
 本人はどんな風に切れていようと無頓着かも知れなかったが。
 直接目にしていない少女でも話に聞くだけでもその切り方がどれ程だったか知れる。そんな腕で、髪が──まして自分の──切れるだろうか。
 そう自分で口に出している内に何か思い当たったのか、探るような、と言っても過分に好奇心に彩られた眼差しで見遣る少女に、サラは邪気のない微笑みを返した。
「必要なら何時でもお貸しするわ。私物ですけれど」
 持ち上げられた鞄の中で、銀色の髪切りハサミがかちゃりと音を鳴らした。