名もなき

 この世界には名前がない。
 当たり前だ。そこに住む人々は自分の世界しか知らないのだから、他と区別するための名など必要ない。──無数に存在する自分以外の世界を知っていたとしても、彼らにとっては紛れもなくここが暮らしの中心で、名前を付ける意味がないのかもしれないが。
 つまらない物だ、と思う。
 今日これから発つ世界に未練なんて感傷はない。心は既に新天地に向かっていた。だからこの世界の名前なんて気にしているのは、只の暇潰しだ。


 この辺りで一番高い塔の上から、彼は下界を見下ろした。一番高い、と言ってもこの世界では精々、通りの人が親指ぐらいに見えるだけなのだが。
 そう言えば、ここから見える風景も彼が物心ついてからのこの十数年、まるで変わらなかった気がする。
 名前と言えば、と視線が一点を見つけ、また思考が回りだした。
 かの人の名前を教えてもらったのは、あの噴水を見下ろす広い階段でだった。ジェラードを渡した彼に、それまで名前を教えることを渋っていた彼女は駄賃だと嘯いた。
 それにしては、たかがジェラード一つの代価としては、彼女の名前はあまりに甘美だった。
 本当は名前なんてただの記号かもしれない。AでもBでも、隣の誰かとは違う別の人間を呼ぶのに差し支えなければ事足りる。
 それでも、彼女の名前は特別だった。
 彼女の名前だけは、只の記号じゃない。

 彼は地上から視線を引き剥がすと、先程から感じていた視線に振り返った。
 一緒にこの世界を発つなんて、まさか有り得まいと思っていた。意外と甘い認識だったようだ。別段そのことに異議はない。この薄汚れた代わり映えのしない世界に片割れを置いていくだなんて、出来やしないのだから。
 ただ、院行きが決定してからと言うもの、生来少なかった口数が尚減っているのが眼について、しゃくに障った。
 生物学上の母であるあの女に頼りにされている。それを置いて行くことを懸念しているのか。
 今生の別れと言うことはないし、この世界なら偶に帰って来て顔を見せるのも可能だろう。院の課程を終えるまでに、ここでの時間はそれほど掛からない。
 ほんの一年ほど行方不明になる、その為のカモフラージュも出来た。
 数秒の出来事にしてしまっても良かったのだが、さすがにそれだけの時の流れを変えると彼ら自身の神経がすり減る。なにより五、六年前の出来事を今さっきあったことにするのは難しそうだ。
 空間制御は擬似的に人生の時間を増やすのではないかと思って計算してみたが、無理に短縮して戻ってきても、結局反動が出るだけのようだった。
 結局、帰ってくる時のことを考えれば、Year offと重なる一年が無理のないレベルだ。もっとも──彼個人としては、帰ってくる時のことなどどうでも良かったのだけれど。
「なにか言いたいことがあるなら、今の内にしとけよ」
 もうすぐ迎えが来る。
 間に合わなくなる前に言いたいことを言えと、告げられた弟は眼を伏せた。その長い睫毛の影が落ちた肌に、夕陽が差し込む。
 だが、今回はそのまま黙るわけではなかった。
「親から貰った名を粗末にする奴など知らん」
 言い捨ててから、結局押し黙る。

 ああ、そうか。未だその事か。
 こんな言い方をすれば、当然自分がそれに拘っているのだと告げているも同然なのは、聡明な彼に分からない筈がなく。だからこれは、敢えて使った言い方なのだろうけれど。
 兄を、非難しているのだ、と言う。
 不器用なことだ。
 その内、そう、例えば院と言う環境で暮らす内に、こういった言外に匂わせる癖も変わるのかもしれない。だが兄と弟で共にいる時には、これでも構わない。
 言葉よりも、言いたいことは繋がるから。

 院のスカウトには、この世界での名前を告げなかった。
 いや、より正確に言うならば彼女と会った時から彼はその名を捨てた。
 だから彼は紛れもなくロアン・マダードなのだ。
 ……何故姓までは捨てきれなかったのだろう。
「名前は、意味があるから。お前がそう名乗っている間はお前は俺の兄ではないと思え」
 きっとこの奇麗な翠の瞳で見据える弟との、目に見える繋がりを切りたくなかったからだ。いずれ自分たちはそれぞれの道を行き、心の言葉を交わすことも出来なくなるだろう。
 それでも、他の者が見て判る関係を残しておきたかった。
「ああ、いいぜ……でも、それでも」
 オレはお前の兄であり続けよう。
 そう繋げる筈だった言葉は、階段を昇って来る静かな足音が聞こえて噤まれた。
 未だ、伝わるはずだったから。


 この日、ロアンとレイヴは院に入学した。