Il neige

「ちょっと涼しいな」
 設定を間違えたかな、とあまり深刻さの感じられない声音でしゃべり、フォウルは窓を開けた。
 少し、肌慣れない冷気を伴った風が吹き込んでくる。
 それは確かにはっきりとした意識をもたらす一面もあるのだけれど、あまり気候の変化に強くない刹は身を震わせて、ただ黙ってフォウルの服の裾を引っ張った。
「ん? やっぱ寒いか?」
 振り向いたフォウルの後ろで、カーテンが風を孕んで大きく宙を泳いだ。
「 ……はい」
 こくんと肯いた子供に微笑んで、いつもならば直ぐ窓を閉めてやるところだが……。
 会話途中で動かなくなったフォウルを訝しげに見上げた刹は、不安と労りを籠めてフォウルの名を呼ぶ。
 それが、フォウルを現実に呼び止める。
「なんか──お前と会った時を思い出して、さ」
「おれと?」
 フォウルの真似をするのがお気に入りで、刹はまだ幼い容姿に似合わぬ言葉遣いをする。
 彼を“拾った”のは、ただでさえ院との関係が薄い世界の、更に辺境の地で。そこから刹を連れ出した時に起きた大騒ぎは、あまりに馬鹿馬鹿しく──なんにせよ本人に罪のないものである。
 あの薄闇の中で揺れる紫眼を見つけた時、その手をひいてしまった。それだけのこと。
「お前んとこは只でさえ辺鄙なのに、しょっちゅう大雪が降ってて寒かったろ」
 一瞬の沈黙の後、軽く応えたフォウルの目の前で、刹が首を傾げた。
「ゆ・き?」
「あ〜〜〜」
 心底未知の単語を聞いたと言いたそうな表情に、フォウルは何と言っていいものか苦しむ。
 幽閉されていた刹に残っている記憶は、ただ暗くて、ただ冷たくて、恐ろしい思いだけなことに、今更ながら気付かされる。
「要するに、雪ってのは冷たくて、白くて、空から降ってきてだな。シロップかけるとかき氷みたいに食べれるんだが、アーシェの奴はそれを怒ってなぁ……」
 ここに教育係であるレイヴがいれば、もう少しまともな説明をしたのであろうが。
 ますます理解不能で混乱した様子が見えて、フォウルはなんだか説明するのが面倒くさくなった。
 百聞は一見にしかず、と言う言葉は多分、こういう時のためにあるのだろう。
「おしっ、見てろ!」
 自信たっぷりに言い放ったフォウルの指が、一点、窓を向く。
 魔力構成の解き放たれる気配がして、ほぼ同時に院を覆う‘天’が一瞬玉虫色に煌めいた。
 しん。とした冷気が静寂とともに大地を覆った。
 身を抱き締め、「フォウルさま」と呼ぼうとした口から白い息が吐き出されのに驚いて、刹は黙り込んだ。
 一秒……二秒……
 ふと、窓の外で何かがちらついて、刹は視線を向けた。
 一つ……二つ……
「あ……」
 白い結晶が、ふわりふわりと漂い落ちていた。
 誘われるように窓から身を乗り出し、天を仰ぐ。
「……キレイ」
 掴もうとして伸ばされた手の上で、雪は、溶けていってしまう。
 少しだけ残された雪の名残に、刹が不思議そうな顔をした。

 あなたの脳裏に刻まれた哀しい記憶を伴う光景だけが
 あなたの世界の総てではないのです
 こんなに儚くて、美しいものを秘めた世界だったのです

 刹のくしゃみに応じて窓を閉めようとしたフォウルの手を、雪のような色の手がそっと押し留める。
 猫の風貌の青年は、一旦刹の傍を離れると毛の長い毛布を抱えて戻ってきた。
 そして毛布にくるまりながら、二人は飽きることなく雪を見つめていた……。

 ──勿論その後、あり得ない異常気象で学生たちが困ったり、就任したばかりのカイ教師が怒り狂うわけだが……。
 それはまた、別のお話。