そこに日常があった

「だから誤解だって言ったじゃない!」
 彼女の反応は、憤慨と疲労を丁度半分ずつ足したような調子だった。
 声と共にしなやかな腕が伸びた。その勢いでテーブルの上を叩くと、続けて、自分たちの席から離れた所に座っている一人の男を指した。びしりと風を切って決まったその格好は女性にしておくのが勿体ないと思えるほど凛々しく。
「どうして、わたしが、彼と、楽しい恋人関係に見えるの、よっ」
 ところどころ強調のために区切られた台詞は、相手を退かせるのに十分な、と言うより必要以上の気迫を持っていた。それにきっかり三十秒はたじろいでから、イクスは話題に出た彼、ラメセス・シュリーヴィジャヤの方に顔を向けた。
 彼は周囲に溶け込まず、少し離れた位置で独り孤高を守っているようだった。こちらから働かなければ、彼と干渉することは皆無。紅い瞳がとらえた視界に人の姿があることはまずない。入ったとしても、彼の意識からは排除されているに違いない。
 結局彼は、そこにいるだけだ。
 世界に干渉することも、世界から干渉されることも拒絶して、ただ沈黙し、テラスから見下ろせる辺りの風景を紅の双眸に映していた。
 それはイクスと共有する寮部屋でも同じ事だった。
「なにをしてるのかな?」
 常の疑問に。
「人が大勢いるのが苦手なんじゃない?」
 人好きそうには見えないから、と彼女は吐き捨てた。品のある容貌からは想像できない物言いをする。
 イクスはその事に困った調子で苦笑して、手付かずだった飲み物に口を付けた。気が付けば、先程彼女がテーブルを叩いた衝撃で幾らかその中身は零れていた。
 カップを下ろす動作を見送って、ふとアーデリカは未だ卸し立ての雰囲気が残る彼の制服の袖口から覗いた腕に、薄い火傷の跡があることに気付いた。昨日会った時にはなかった筈だ。彼女は眉を顰めた。
「イクス、それはどうしたの」
「え? ああ、いや昨晩ちょっと……」
 指摘に、イクスが曖昧な返事を返した。こんな時は大抵──
「ラメセスね」
 それはもはや疑問でもなく、確認。
 その証拠に、アーデリカはイクスが肯定も否定もしない内に勢いよく腰を上げ、不機嫌な声でラメセスを呼んだ。止める間もない。仮に止められたとしても、こんな時の彼女は何を言っても聞き入れてくれないとは、未だ出会ってから間もない今日までに何度も経験させられた事であった。
 周囲の好奇心に溢れた視線を集め怪訝そうな色を浮かべたラメセスは、もう一度名を呼ばれるに至りゆっくりと立ち上がった。
 その歩みに応じて、燻らせたままの煙が細い糸のような跡を残した。
 と、両眉を吊り上げたアーデリカが片手を持ち上げ、ラメセスの口元から点火されたままの紙巻煙草を取り上げた。そのまま摘み上げた指先だけで葉を押し潰す。小さな火の粉が一瞬の煌めきを宙に残した。
 鮮やかな輝きの向こうで、紅の瞳孔が狭められた。が、何を言うでもなくただ自然な動作でポケットから新たな煙草を取り出す。
 その一本を、いっそ華麗と言っても良い手付きでアーデリカが抜き取りグラスの中に落とした。じわりと汗をかいた氷に紙が張り付き、色を変えていく。
「禁煙席よ」
 何でもないことのようにあっさりと述べられた言葉で、煙草の行方を追っていたイクスの意識がアーデリカに戻った。
 顔の筋肉はこれといって動かされていないものの、ラメセスの表情には酷く剣呑な色が浮かんでいた。それを無視するかのように、アーデリカは彼の肩を押して椅子に座らせると、その前に立ちわざとらしい咳払いを一つした。
 イクスの目の前で丹念に梳かれた跡が分かる栗髪が揺れる。
「それで、また喧嘩したの?」
 また、と呆れられるほど自分たちはこんな事を繰り返しているのか。
 その事の方に頭痛を感じて、イクスは思わず深い溜息を吐いた。対するラメセスは何の事を指しているのか分からなかったらしい。不審そうな眼で彼女を見上げていた。
 改めてアーデリカは後ろ手にイクスを指差すと、良く通る声でしっかりと言い放った。
「寮は調理以外の火気厳禁でしょ!」
 正論だが、言うべきはそこなのか。
 一瞬にして周囲の疑問を集めた彼女は、続けてあっさりと友人の安否を切り捨てた。
「イクスは丈夫だから良いとしても、火事になったらどうするのよ」
 これは善意に解釈して丈夫だと太鼓判を押された事を喜ぶべきか、せめて両方の事を心配してくれと頼むべきか。判断がつきかね、イクスは笑うでも泣くでもない曖昧な顔をするしかなかった。どうも院に来てから表情の選択に困る局面が多いような気がする。
 そんな同室の男にちらと眼をやって、ラメセスは直ぐに視線を外す。その右手が一度、落ち着かなそうに指先を弾いた。黒と金色の入り交じった不思議な髪の毛先が揺れる。
「どこかの誰かと違って制御出来るんでな」
 やや間があってからなされた返事に、ちょうど回答を催促しようと口を開きかけていたアーデリカは一旦それを閉ざし、一瞬の後再び開いた。
「なんですって?」
 先程よりも意識した様子が伺える声の低さ。イクスの位置からは見えないが恐らく笑っているのだろう、顔だけは。そう確信出来る険悪な声音だった。
 彼女は笑顔の時の方が恐ろしい。
 何故これまでの期間にそこまで知るようになったのか、についての説明は必要あるまい。
「二人とも落ち着いて……」
「イクスは黙って」
 一瞥と併せてそう言われ、イクスは残りの言葉を唾と一緒に飲み込んだ。彼女にしてみれば、ただ一瞬振り返って視線をやっただけだろう。が、それだけでは済まされない凄絶な色が浮かんだ双眸だった。
 緊張感を取り戻した空気に満足した様子でアーデリカが顎を引き、ラメセスを見下ろした。
「で、わたしに何を言いたいのかしら」
 下手な言い訳をすれば斬る、と身体中から立ち上る殺気が見え隠れした。危険が感じ取れる兆候に、六割程は野次馬根性で様子を伺っていた周囲の面々も密かな防御態勢を取る。
 一方それを真っ正面から受け止めたラメセスは、無表情だったその顔に皮肉っぽい笑みを浮かべた。何かを楽しむようなその面持ちに悪寒を覚え、思わず呻き声をあげたイクスはやはり無視された。
 彼も笑顔──それは彼女のものと違い、肉食獣が獲物を八つ裂きにする直前の獰猛な表情に似ていた──の時の方が恐ろしい。
「自覚はあるのか」
 先のラメセスの発言は「誰か」を引き合いに出しただけ。
 その瞬間、憤慨したアーデリカは怒声を張り上げ──しかし、背後で強烈な破裂音とそれに紛れた微かな水音がした事に気付き、我に返った。
 テラス全体が途端に静まり返る。
 ばこん、ぱしゃ?
 確かにそう聞こえたと、彼女は何度かその音を心中で繰り返して気持ちを落ち着けると、慎重に、ゆっくりと振り返った。
 制御を離れた魔力が暴発するのは、なかなか直らないアーデリカの悪癖だった。と言っても理に乗っ取って発動するわけでないそれは特別派手な空砲のようなもので、実害はさほどない。ただ、言われた途端にこれでは揶揄されるのも致し方あるまい。
 そして、彼女は微動だにしなくなった。
 そして、微動だにしない彼女に向かって、イクスが気の抜けた笑顔を見せた。拍子に、緩く立ち上がった前髪から色の付いた滴がこぼれ落ちた。
「っ、ごめんなさい!」
 場を見渡してみれば、重厚な表面が不自然にたわんだテーブルとイクスの足下で見事に割れた断面を見せるカップ。そして、白い制服を染め上げる色。
 暴発の結果だ、と言うことは誰の目からも明らかだった。
「いや……上着だけだから」
 被害者であるイクスは、前髪から滴り落ちる濃い色の滴に数回眼を瞬かせると、優しい色の瞳に当惑を浮かべながらも、動転しているだろう友人に対し気遣いは無用だと笑みを作った。
 そのイクスの思いやり交じりの遠慮を、しかしアーデリカは一刀両断した。
「洗ってくるわ!」
「え?」
 普段出さないような高い位置から声が出た。
 と言うのもアーデリカは宣言するなり、呆然と動きを止めたイクスの上着に手を掛けたのだ。彼の自制心も、公衆の面前で女性に脱がされると言う事態においては、思考が停止する事を押し止める役を果たせなかった。
「待っ、リ、リカ!」
 悲鳴にも似た制止の声が空しく響いた。
 イクスの上着を文字通り剥ぎ取った彼女は、器用に汚れた面を内側に丸めて抱えると、足早に立ち去ろうとして爪先で立ち止まった。急停止の後、くるりと美しい円を描いて身体が回る。
「直ぐ帰ってくるからね! で、動くんじゃないわよ!」
 最初はイクスへ断って、それからラメセスの方へ凄んで見せて、と忙しなく表情を変えたアーデリカは、今度こそどんな言葉も掛けることは許さず駆け去った。髪が左右に揺れて、空中のテラスと地上階を繋ぐリフトに消えていく。
「シャツ着ててよかった……」
 数秒以上の空白の間があってからようやく、イクスはそうとだけ呻くと力の抜けた四肢を投げ出した。広い背中を椅子の背もたれが受け止める。
 取り敢えずの終結を見せたやりとりに満足したのか、人々は各々の話題へと返って、天空に浮かぶテラスは再び当初のざわめきを取り戻した。
 どこまでも青い空に、音にならない息が溶けて消えていく。
「凄いな」
 暫く経って、イクスは照れ臭そうな苦笑いを浮かべながら椅子に座り直した。一応目の前に腰を下ろす友人へ向けての言だったのだが、それに対する反応はやはりなかった。
 それから思い出して、イクスは足下に落ちたカップを丁寧な手付きで拾い上げた。最早使い物になるまいそれに心中で謝罪の言葉を落とすと、銀色の丸盆を掲げた妖精がそれを運んでいく。
 院の物品流通がどのような仕組みになっているのか、未だ彼は知らなかったが、何にせよ物は粗末にするべきでないと思う。生活苦などほど遠いカルバニル家で育ったこの青年は、けれども物の価値を知る男だった。例えば己にこのような工芸品は作れないし、直すことも出来ない。ならば大切にして然るべきだろう。
 とは言えそのような自身の価値観を、世界すら違う相手にどこまで言って良いものかイクスは計りかねた。結果、口をついて出たのは別の事で。
「あんな人もいるんだな」
 今度のそれは、感嘆と落胆のどちらもが入り混じった溜息だった。
 望んで院にやって来たものの、世界を異とする人々との暮らしは愛する故郷と余りに違う。未だ最初の学期に入ったばかりだと言うのに、常識を覆される出来事は両の手に余る程あった。その一々に反応してしまうのは未だ慣れていない為で、つまりは自分の柔軟性が足りないのだと幾度か自戒してみたが、その呪文が効果を上げる節は今のところ見られなかった。
 ラメセスが動きを止めると紅の瞳を細め、訝しげにイクスの鳶色の瞳を射た。
 彼はあまり他人事に干渉しないが、人並みの興味くらい示す時がある。これはつまりどういう意味での発言かを問うているらしい。イクスは彼を見上げると苦いものの混じる淡い微笑みを浮かべた。
「簡単には守らせてくれなそうだろう」
「あの女を?」
 はっきりと口に出して問い返されたのは、これが初めてかも知れなかった。イクスは驚いて見上げたラメセスの顔に、自分がまだ見たことのない色が浮かんでいる事に気付いた。
「守るのか?」
 それは何時も表情を動かさぬ彼らしくない、呆けた顔だった。
 自分と彼がお互いに驚いていると言うのは不思議な状況だと感じながら、イクスは思い付いたままに単語を紡いだ。
「女性だよ」
 その声色は弟にでも言って聞かせるような調子であったので、続けて彼は自ら快活な笑い声を上げていた。イクスに年下の肉親はいないが、兄姉が自分に対して接していたやり方はよく覚えている。
 しかし黙り込んだラメセスが理解も納得もしていない様子であるのを見て、彼は自身が失敗した事を悟った。
 同室の友人にとっては、アーデリカが女性である事と守ると言う定義は同一上で語る要素として捉えられていないらしい。
「少なくとも俺の故郷では、女性は男が守るものなんだ」
 今度は範囲を区切って分かりやすく、言い直す。
 嘲笑うようにラメセスが頬を歪めた。その時彼はアーデリカが残していった濡れた煙草を見下ろしていた為、何に対しての侮蔑なのか一見はっきりとしなかったが。
 透明なグラスの内側に貼り付いたそれは、醜い残骸を晒していた。
「──冗談じゃない」
 低く、抑揚のない声だった。
「そんなことあの女に言ってみろ。叩き斬られるぞ」
 ああ、そうか。とイクスは不意に悟った。その理解は余りに自然と自分の胸の中に転がり落ちてきたため、これまで分かっていなかった事の方が不自然であるようだった。
 彼女も、ここでは一人の騎士候補なのだ。守るべき相手ではない。
 頷きを繰り返すイクスを余所に、ラメセスは言葉を零した動きのままグラスの中の煙草に眼を落とした。完全に水を吸って使い物にならなくなったそれに、動かない眉が顰められたように見えた。
「百害あって一利なし、だぞ」
 彼の喫煙癖には異文化と言う一言で片付けられない異常なものがある、と言うのはアーデリカとイクスに共通する認識だった。
 そう思うからこそ制止を繰り返しているのだが。
「部屋では吸ってない」
 憮然としたように見える表情で、ラメセスは服のポケットから新しい煙草を一本取り出した。
「それで夜中まで外にいられちゃ、風邪でもひきそうで心配だよ」
 とは言え院はとても穏やかな気候をしていて、余程の事でもない限り風邪に冒される心配はなさそうだったのだが。
「……判ったか?」
 自身でも間の抜けた問いだと思わされた。
 ラメセスは相槌のようにも聞こえる気のない唸り声をあげた。それと同時に彼が銜えた煙草の先に火が着く。イクスには永遠に手に入らない不可思議の力が起こす、現実の火が揺らめいた。
「お前のお節介ぶりはうんざりするほどな」
 どうやら憎まれ口等ではなく本気で言っているらしい。
 些か力が抜ける思いを抱きながら、イクスは妖精が運び直してきた新しい紅茶を受け取った。漂い出る芳醇な香りに、今日このテラスで初めての安堵を覚えた。駄賃として角砂糖を一つ与えてやる。それだけの価値ある一杯だ。
その至福の一杯に口を付ける直前、彼はもう一度だけ制止の言葉を口にのぼらせ──ようと思った。
「ラメセス──」
 呼び掛けをかき消す轟音は、晴天下の落雷。
 その瞬間分かったのは、おざなりに振るわれたラメセスの指先に力が乗せられていたと言うこと。稲妻の落下点が自身である事には、呆れた話だが力の抜けた膝が床に落ちた事で気付いた。
 制御が出来ると言う話に誤りなく、手にしていたティカップにだけはひびも煤も見当たらず、美しい紅色の液体を宿していた。だが人とは我が侭なもので、あまりその事は心の慰めにならなかった。
 急激に狭まる視界の中見えたのは、己の身体から立ち上る白煙の向こう側でラメセスが紫煙を吐き出し、その二つの煙が解け合って空へと昇っていく光景だった。
 嗚呼、遠くからアーデリカの金切り声が聞こえる。
 暗転。