レンアイノススメ

 サルゴン・レイとはこんな男であった。
 まず食事は朝昼晩の三回。就寝前の音楽鑑賞も欠かさない規律正しい青年だ。
 華やかに過ぎる同期の学友たちの陰で、余り目立たない印象がある。
 身長は高すぎも低すぎもしない。顔立ちは取り立てて美男子でなく不細工でもなく、言うなれば十人並み。見る者によっては割とハンサムと言うところだろう。
 無能ではない。同期生の誰一人として退学させずに進級すると言う、院史に残る快挙を遂げた学年にいるだけの才はある。あるいは学年さえ違えば、主席の座を争う一人であったかもしれない。
 もっとも本人は仮定の話をする暇があるなら、新しい音楽理論を組みたがる。そう、一つ誇るものは類い希な演奏技術とそれを駆使する確かな理論。
 必要以上に出しゃばらず、落ち着いて自分のする事をする。
 サルゴン・レイとはこんな男であった。

「……どうしたの?」
 常ならば軽快に新しいメロディを書き留めている筈のペンが宙で止まっている。そんなサルゴンの姿を、アーデリカは驚いた表情でマジマジと見つめた。
 その問い掛けにも、返事はない。
 アーデリカとサルゴン、それに風祭真理まこと──紛らわしい名前の為親しい友人たちからはマリーと呼ばれている──は、シュウ教師の授業でグループを組んでいる。今日も楽譜を完成させようと作業を分担し、キーボードを前にあれやこれやと考え込んでいたアーデリカは、アドバイスでも貰おうとしたところで友人の異変に気付いた。
 いつもは他の者の作業までやってしまいかねない音楽の虫が、先ほどから意味もなく線を引いていたかと思えば、今度は夢見心地であらぬ彼方を見つめている。
 数秒間そんな様子を見つめて、アーデリカは反対側の席の真理をつついた。
「なんだい?」
 軽く振り向きざま、人当たりの良い穏やかな笑みを浮かべたもう一人の友人に、こちらもにっこりと微笑み返すと、様子の奇怪しい学友を指差した。
「ね、マリー、サルゴンの様子がおかしいのよ」
 二人は寮の同室だ。何か知っているのではないかと振ったその問いに、真理は椅子を横向きに座り直すと青白い頬に微笑みの色を濃く刻んだ。
「サルゴンはね、呪いをかけられたんだよ」
「え?」
 あと数十分の残された作曲の時間を活用しようと、辺りは様々な音色が奏でられ騒がしい。それもあって、アーデリカは反射的に聞き直した。
「新入生から、一目見ただけで掛かってしまう飛び切り強力な奴を」
 アーデリカは蒼い瞳を隣席のサルゴンに向け、それからもう一度真理と顔を合わせた。
「……サルゴンが?」
「そう」
 お陰で昨日から笑った顔が可愛いだの、声が良いだの、小さくて一生懸命走っているのが愛おしいだの甘ったるい言葉ばかりで、こっちの気が奇怪しくなりそうだよ、と真理は笑顔は崩さないままさらりと苦情を述べた。
 この場合どちらに同情すべきか、さすがのアーデリカも苦笑するしかない。
 それにしても、と彼女は未だぼんやりと虚空を彷徨っているサルゴンに視線を投じた。
 アーデリカの知っているサルゴンと言えば、今教室で皆と同じように曲を完成させようとしているシュウ教師の教室に所属する二年生。その師とは意見の衝突も多く、取り分け女性に対する問題について、サルゴンは師を非難していたから。
「興味ないと思ってた」
 と言うのが正直な話。
「遅い春ね」
「そうだね」
「奥手そうだから、応援してあげようか」
「そうだね」
 ふぅん、と二人は相づちのような溜息を漏らし、同時に苦笑した。その笑みを張り付かせたまま、アーデリカが問う。
「ところでその前に、課題をなんとかして欲しいのよね」
 どのグループも同じ時間で一曲の完結した曲を作り、奏でなければならない。ところがそろそろ発表の時間だと言うのに、今日はまだ主旋律も満足に出来上がっていないのだ。
 サルゴンの方は即興でも良いとしても、アーデリカは楽譜が出来ていないと──自信がないと言いたくない彼女だったが──厳しいのは確かだろう。
 勿論真理も被害を被る筈だが、彼はたおやかな外見に似合わず意外と要領のいい性格をしているので、上手にこの場も切り抜けそうな印象がある。
「いいよ。貸し一つで」
「ちゃっかりしてるわね」
 開いているのか閉じているのか判らない糸目が、微笑みを深くしてより細った。
 真理は快諾したものの、自分が曲を作る気は毛頭ない。彼がするのは、サルゴンを正気に、少なくともこの授業を乗り切れる程度に起こすことだ。
 先程からの会話も耳に入った様子がない友人に向かって、色素の薄い唇を動かす。
「サルゴン、君のバンビちゃんがシュウ教師に言い寄られてるよ」
「──っ!?」
 突如として眼を見開いたサルゴンは、視界一杯に広がった真理の顔に驚いて椅子から転げ落ちた。
 大人しい青年の常にない慌てぶりに、周囲は一瞬不振の目を向けたが、彼が立ち上がる頃には自分たちの楽譜や楽器に向かい直した。
 そして床に強かに腰を打ち付けた友人を見送ったアーデリカは、助け起こす事も忘れて真理を見やる。
「バンビちゃん?」
 その単語に、教壇のシュウ教師の方を見やって、先ほどの真理の言が嘘であることを確認していたサルゴンは、何とも言い様のない表情を浮かべた。
 一方の真理は、ああ、と明るく応える。
「サルゴンの奴、相手の名前も知らないんだ。だからバンビちゃん(仮称)」
「マリー……リカに喋ったのか?」
 知られて不味い理由でもあるのかと、アーデリカは態とらしく頬を膨らませる。その表情に、サルゴンは自分の短過ぎる前髪を見上げた。
 アーデリカが切った成果がこれだ。関わらせると禄でもない結果になる。
 これまでにもサルゴン等が被った被害を知っているだろうに、彼女の興味を惹く話題を教えた裏切り者は、それが当然のような顔をして宥めてきた。
「サルゴン。僕がどちらに付くかなんて、判っていただろう?」
 有利な方に付くのが処世術だからね、と変わらぬ微笑みで突き放され、サルゴンは溜息を吐いた。
「お前、人が悪くなったぞ」
「飾る必要がないって言ったのは君たちだよ。さて、サルゴン」
 友人の訴えはさらりと受け流し、真理は本題を取り出した。
 まだ未完成も甚だしい楽譜。
「君の得意なものはなんだい」
 あまりに脈絡のない質問を受け、サルゴンは眉を顰める。答えるのは簡単だが、この食えない友人から何が返されてくるのか──。
「……音楽、だと思っているが」
 結局のところ、正直に答えるしか道はないと気付かされたのが悔しい。
「じゃあ、それでアピールするんだ」
「はぁ?」
「バンビちゃんの心を動かす、世界にただ一つの曲を書け」
 驚愕の表情を見せたサルゴンが、真理から説明を受ける内、次第に真剣な眼差しを取り戻していく。
 曰く、安っぽい言葉にするよりもバンビちゃんを愛する真摯な想いを綴った曲を奏で、彼女に捧げることこそ、真実の愛である云々。
 途端に鬼気迫る速さで楽譜を埋めだした友人を尻目に、真理はアーデリカと視線を合わせた。どちらともなく、笑みが零れる。
「直ぐに出来上がると思うよ」
「お見事な手腕ですこと」
 美しい友人からお褒めの言葉を賜った真理は、もう一度微笑みを浮かべ直した。

 こうして数分後に出来上がった三人の発表曲だが、楽譜を読んであまりの恥ずかしさにアーデリカが激怒し、教室を半壊状態にさせたことについては、語らぬが華と言うものであろう。

 サルゴン・レイとは、こんな将来を描くことになる男である。
 つまり、三年時には順当に上級認定試験を通過し、四年時にはシュウ教室長に就任。雑用を命じられるなど、虐げられる日々を送る。真理に言わせれば、小心なところで損をしている事になる。
 現在名前すら知らないバンビちゃん(仮称)ことセララ=ジューンとは、その後はれて恋人となり、一部の反対を余所に常時熱愛ぶりを見せ付ける。相変わらず口を開けば惚気としか言い様のない恋人賛辞が飛び出す。
 その程度には、周りのことを無視できる図太さがあったらしい。
 サルゴン・レイとはつまり、こんな男である。