吟遊詩人たちの午後
弦を爪弾く音がした。
頂点を過ぎた太陽から放たれる麗らかな陽射しの下で、院の学舎の前方に広がる庭園の草花は調べにあわせて風と戯れていた。
音色には如実に性格が表れるものらしく、旋律は時に優しく、また激しく、沈痛にも揺れ動いたが、中心にはどこか張り詰めた生真面目さが伺える。とは言え距離を取って耳を澄ませてみれば、音源を近しくする循環する水の流れ落ちる音が絡み合い、そこに円やかさを加えて最上級の仕上げを施していた。
その三本の弦で万の音を生み出し続ける青年の隣に、少女と言って差し支えない幼い容姿の娘が腰を下ろしていた。抱え込んだスケッチブックに刹那に消えていく水面の模様を描き続けている。
腕の中に積み上げられた荷物で前方への視界が不自由なイクスは、横を通り過ぎる段階になって漸くその光景を捉える事が出来た。
「やあ、やっぱりサルゴンだったのか」
その声に顔を上げた青年は来期からシュウ教室の教室長となるサルゴン・レイ、元気に返事をした少女は一学年下であるが同じくユ=ノ教室の教室長に内定しているセララ・ジューンと言った。
「……なんだ、その荷物」
イクスが運んで来た資料や備品の山を見て、サルゴンは演奏の手を一旦休めた。けれども楽器を持つその手は弦を締め直したり、脂を塗り込めたりと、決して止まることはない。
自分にはない、音楽と言う秀でた才能を持つ友人のそれらの所作を興味深い面持ちで数秒見やったイクスは、それから手荷物と呼ぶには少しばかり多い重みに顔を戻して答えを返した。
丁度目線の当たる位置にあった一冊の本を指し示すように視線をやる。
「うちの教室に来る新入生の為の準備だ」
サルゴンが背表紙に書かれた装飾過剰気味の文字を読むより早く、横からセララが制服のデザイン集だ、とはしゃいでいるように聞こえる高い声で言った。そんな洒落た本を見せて貰った経験のないサルゴンは、余り必要な物とも思わなかったが。
「そんな本があるのか」
「あったんだよ」
お互いに思う事は同じだとイクスは軽く笑った。
自分たちが入学した頃は、教室長の手によって放り込まれた衣装部屋で取り敢えず身丈に合う制服を選ばされたものだ。とは言え同期の中でも、アーデリカだけはきちんと寸法合わせからデザイン決めまで経験していたらしいから──教室や教室長のやり方と言えるかも知れなかった。
それにしても、と青年は首を傾げた。その拍子に前髪が動いて額に薄く描かれた複雑な紋様が露わになる。
「気が早いな」
この院に導かれ辿り着く新入生は果たして何人になるのか、どの教室に所属するのか、そう言った事はまだ正式に発表されておらず、このような段階で準備しても過不足が生じる可能性が高い事くらい、イクスならば分かっているだろうに。
けれどもその疑問に答えが提示されるより早く。
「そっかぁ、イクス君は、教室長としてはサルゴンちゃんより先輩なんだね」
遂に自分も教室長として独り立ちしなければならない身となったセララは、共にこれから新任教室長の務めに向かう恋人よりも、先の学年次から教室長となっているイクスに学ばねば、と思ったらしい。
偉いなぁ、凄いなぁと幼い子のように微笑む彼女の様子に、些かサルゴンの機嫌は傾かざるを得なかった。様々な楽器を弾きこなす為の指先に不要な力が掛かる。圧力に耐えかねた弦がその指の間から抜け出す際に、ぶん、と低い音をさせた。
「だけどイクス、お前──教室変更は?」
心持ち秘めたような声になったのは、もはや周知の事実とは言えどもやはり未正式発表の話である為。
──サイファ教師の退任に伴う教室解体、それに伴う一部学生の所属移動と、新教室開設。
サイファ教室の解体自体は自分たちが入学した時から公然と噂されていた事だったが、ここにきて信憑性が強まったのは、院の史上に残るだろう情報通の学生の存在が大きい。更に新たな教室が開かれるとなれば、果たして教鞭を執るは誰か、変更を打診されるのは誰なのかと逸るのも仕方あるまい。そんな中、彼らにとっては同期でありまたイクスと同じく劉教室に所属するある男が新教室へ移動する可能性があるらしい──と件の学生から耳打ちされたアーデリカが語っていた事も記憶に新しい。
そのアーデリカ本人にとってもこれが他人事でなく、教室長として新教室に所属する意向を打診され得ると言われていた事は、彼らの知るところでなかったけれども。
「希望は出してきた」
現状に不満がある訳ではないし、院生ではないらしいと言う不可解な新任教師に何か過剰な期待を抱いている訳でもない。敢えて言うならば自分の責任だろう。それとて、他人を納得させられるほど大した理由ではない。
言葉少なな肯定に、疑問を込めた眼差しが返される。
「次の教室長にやらせちゃえば?」
口を出したのはセララの方で、サルゴンは唇を曖昧な形で開いたまま動きを止めた。
責任感の強いイクスに対しては言うまでもない事のようにも思えたが、実際に彼がしている事が違うのだから、正当な問いでもあった。
その通りだと、イクスも頷いた。
それが教室長の業務だからと言う理由もあるが、新入生からしても、今後自分の学生生活に直接関わる教室長と引き合わされる方が良いに違いない。けれども。
「ただ、決定していない状態で完全に引き継がせるのも悪いだろう」
イクスの教室変更は、本人がそう申請しているだけで、未だ受諾された事項でなかった。
通常ならば、これほどまでに今後の展開が不明確な事態は有り得ない。教室長の引継は大体半期から一期の間をかけて前任者から後任者へと教え込まれるし、そもそも教室の閉鎖、新設及び変更等という大きな動きは、もっと早く正式に発表されてしかるべきだった。学生の与り知らぬところで内々に決まっていた訳でもないと言う事は自分たちの教師の様子を見れば明らかであったから、彼らは特別不平を言うこともない姿勢を保った。
そもそも、ここ数学期は院全体が慌ただしかった。その事をしみじみと思い返しながらイクスは荷物を抱え直した。本当は肩を竦めようとしたのだったが。
「一応後任候補には教え始めてるんだけどな……」
どちらに転ぶか見当の付かない現状では、どちらに転んでも問題がないように準備しておくしか思い付かなかったと続ける。勿論教室に関する事情が決まってから新入生を迎え入れる事が理想であり、そうと働きかけるつもりに変わりなかったが。
「大変だな」
半端に開いていたサルゴンの口が、ようやく言葉を紡ぐことに成功した。
実際、もしも自分が彼の立場だとしたら──恐らく考え過ぎて身動きが取れなくなり疲れ果ててしまうだろう要領の悪さは自覚済みだった。
「そこまで言われる程の事じゃない」
一方運の悪さには定評があるものの、それ程気にした様子を見せた事はない青年の方は深刻な事などないと笑った。この準備も、少なくない確率によっては無駄に終わるだろうけれど、自分一人の労力で済むのならば構わないか、と言う考えが彼にはある。
それから軽く目礼すると改めて荷物を抱え直して立ち去ろうとした。
その時、イクスの長身の向こうに見える一本の樹の陰から、誰かの白い制服の裾が風にさらわれてふわりと浮かんだ。直ぐに幹から手が現れたかと思うと服を押さえたので、最初サルゴンはただの通りすがりなのだろう、と思った。ところが、イクスと彼に抱えられた荷物がサルゴンの視界の右側へと進んでいくのにつれて、彼女は樹を壁にする格好で慎重に姿を現した──妙な表現であるが、樹に遮られる事もあってイクスからは丁度死角になる位置を取りながら、その為にサルゴン達の目前に出てきたのだから、的確な言い方だろうと彼は自賛した。
そう、それは一人の女学生、だった。
濃い色の双眸でじっとイクスの背中を見つめている彼女の様子に正直首を傾げて、サルゴンは声を掛けた。
「な」
瞬間、どん、と言う鈍い衝撃がサルゴンを襲ったかと思うと声を上げる間もなく視界が持ち上げられ、派手な水音と共に背中から冷たい水底を感じる羽目となった。
空中に舞い上げられ陽光に煌めく水面越しに見上げる青空は、その状況を忘れる程に不思議な美しさで目の前に広がっていて。
「ってセララ!」
傍らの彼女が身体ごとぶつかってきた事で噴水の中に落ちたのだ、と言う事はさすがに捕捉していた。
「サルゴンちゃんゴメンね、転んじゃったっ」
頭を持ち上げた所には、愛しい人の申し訳なさそうな表情があって、サルゴンは反射的に大丈夫だと答えた。幸いな事に楽器はセララが空中ですくい上げる事に成功しており、水に濡れたのは自身だけだった。彼女にも楽器にも異常がないとすれば、彼にとっては何ら問題がない。唯一言わせて貰えるならば、セララは楽器を咄嗟に抱え込んでくれたが、自分は逆に突き飛ばされたような気がしないでもないと言う案件だったが、小柄な彼女が自分を引き上げようとしても、逆に落ちてしまうだろうと思って口を噤んだ。
──それに余り細かいことを言うと、彼女は機嫌を損ねてしまうのだ。
セララがぱっと表情を明るくする。そんな良く変わる顔が可愛らしい、とサルゴンは心中で幸せに呟いた。けれども彼が浮かべた微笑みには見向きもせず、セララは唐突なタイミングで横を向いた。
「大丈夫だって! 吃驚させてゴメンね、イクス君!」
行ったのだと思っていた友人が、困った風に瞳を細めて見ていたと言う事に今更ながら気が付いて、サルゴンは濡れた右手で髪の毛を掻きむしった。
「気を付けろよ」
苦笑いに対して手を振ってやると、イクスは進行方向に向き直ると塞がれた前方の視界を確認しつつ歩き出した。
見ると先程の木陰に人影はなかったが、サルゴンが噴水から出て濡れた上着を脱いだところで、再び一つの影が伸びた。今度は黙ってその動向を窺う。酷く慎重な動きでありながら、彼女は真横のサルゴンとセララに注意を払う様子もなく、ただイクスだけを見つめていたかと思うと、彼に併せる形でゆっくりと歩を進めた。
その気配の消し方は見事なもので、姿を現しているのでなければなかなか見破られる物でないだろう、と言う事は分かった。とするとサルゴンが気が付かなかっただけで、彼女はずっと木陰にいたのかも知れない。
暫く無言で友人と、彼を追っているらしき彼女とを見送って、やがて声が届かないだろう距離を置いてサルゴンは名を呼んだ。
「セララ」
「なぁに?」
しなだれた恋人が上目遣いに顔を覗き込んでくる。
その視線の先に例の二人を指し示して、サルゴンは改めて言うまでもない事を確認してみた。
「あれ、うちの教室の天麗だよな」
彩天麗はシュウ・スクード教師が中途から迎え入れた女学生で、つまりサルゴンの直接の後輩に当たる。勿論彼が彼女を知らない道理はなく、それゆえセララは答える代わりにその細い腕でサルゴンの胸元を叩いた。
「もぅ! サルゴンちゃんてば、気を利かせてあげなよ〜」
気が利かせる、と言うことはつまり──サルゴンは沈黙した。
確かに天麗はある種過剰なほど控えめな娘だ。好意を抱いた相手を追い掛け、ひたすらに見守ると言う形の愛情も有り得る……のかも知れない、とサルゴンとしては友人にも、後輩にも一言言ってやりたいものを感じた。
しかしそれよりも気になったのは、腰を下ろしていた彼女が転ぶと言う謎の現象と、それが起きたタイミングの良さから推測される事の方だったけれども。
けれども。
「代わりにさ、デュエットしたげるから」
片手でサルゴンの楽器を差し出し、もう一方の手で胸元からハーモニカを出した恋人の笑顔に、その疑念は無条件で霧散した。
そして息のあった二重奏が、変わらず汲み上げられては舞い落ちる水音にあわせて友と後輩の後を追いかけた。
【完】 戻る