祝福

 言語解析機能はその働きを休めているのだろうか。
 音と言葉の羅列が流れ聞こえて、レイヴは顔をあげた。
 本に没頭している常ならば無視しそうな物に反応してしまったのは、メロディと言うには拙いと思われる切れ切れにただ上下するだけの音と、それに併せて発せられる意味を解せない言葉とが、随分と近くで聞こえたからに他ならない。
 或いは一種ホームシックのようなもので、自分の知り得ない世界に対して敏感になっているのかも知れなかったが、その可能性について考えるのは余り愉快でなかった。
 持ち上げられた視線の直ぐそこで、一人の少女が舞っていた。
 否、断定するような言い方をしたが、実際にその動きが何を示しているのかはやはり分からなかった。
 独特のリズム感で続けられる音を口ずさみながら、曲線的な動きが繰り返される。その指先までがすっと一本通っているのは、神経が行き届いている証拠だろう。幾房にか分けられた長い黒髪が宙で動きに彩りを加える。閉じた瞼の上には泥のような物が塗られていて、変わった風習だと思わされた。それも含めてどのような意味が込められた行為なのか、調べてみるかと思う。
 ふいにその瞳が開いて、レイヴと眼を合わせた。暗い色の瞳が驚いた風に見開かれる。
 途端、彼女は油の切れた機械のように動きを急停止させた。
 問題だったのはそれが、重心を移動させている最中だったと言う事で。
「っきゃああ!」
 踵を滑らせ重力に引きずられた少女は派手な悲鳴をあげた。どん、と腰が床に打ち付けられた音に、事の成り行きを見守っていたレイヴも一瞬顔をしかめた。高い天井が音を反響させて、堂内に満ちていた静寂を追い出してしまった。
 自分の存在に責任があったようだが、気が付いていなかったのはお互いだから、そこまで驚かなくとも良いのではないか。
 とは言えわざわざ文句を言うつもりもないレイヴは、その気持ちを溜息に込める事でやり過ごし、膝上の本を閉じた。
「……大丈夫か?」
「ええ。人がいらっしゃるとは思わなくて驚いただけですから、ご心配いりませんわ」
 思っていたよりも冷静な返答を返して、少女はすっと立ち上がった。
 風変わりな化粧もあって分かり難かったが、同年か少し年下と言うところか。学生用の制服を着ている事と、何処にも上級生である事を示すバッチが見当たらなかった事から一、二年生だろうと検討がついた。とは言え院では見た目の年齢で学年等を割り出す事が出来ないから、もしかすると三年生かもしれない。だとしたら、退くべきは新参者の自分の方だろうかと考える。
 此処、講堂は基本的に無用の長物である、と言うのが暫く過ごして分かった事実だった。使用される事は滅多になく、寄りつく者も少ない。つまりこの堂内ならば、初級生は原則二人部屋とされる寮内よりも簡単に静寂と親しむ事が出来たのだ。孤高を気取っているわけでないが、時に独りになりたい衝動と言うものが生まれる。その際に良い穴場だったのだが、どうした物かと思いつつレイヴは本の表紙を撫でた。
 彼女から話してくれれば良いのだが、お互いに相手の様子を伺っている状況だった。不自然な沈黙が場を支配する。
「あの、お邪魔だったでしょう。申し訳ありませんでしたわ」
 漸く意を決したように彼女は口を開いたが、それは舞の事を言っているのか転んだ前後の事を言っているのか、レイヴには確実な判断がしかねた。どちらにせよ、本来は公共の場であるし、特別気にする程のものでもない。
 と、突然声が聞こえた。
「五月蠅いな」
 それは険悪な調子を過分に含んだ声だった。見ると、椅子の背もたれから顔だけを覗かせた青年が酷薄な色の瞳を細めて少女とレイヴを、それもどちらかと言えば少女の方をより強く睨み付けていた。その表情のまま、帽子を持ち上げ頭に乗せた。
 その風貌と大きすぎる感のある帽子の組み合わせに、レイヴは当て嵌まる人物を知っていた。ナディ──ナディルヤード・ピリス。それは一年上の学年に所属する同室人が言っていた、少々扱いづらい同級生の名だ。
 実際、彼は酷く苛立った風に頬の横で作った拳に力を込めた。否、何かを握っているのだ。
「そこの女、私の安眠を妨害するつもりなら強制退場させるぞ」
 もう片方の手で少女を指差し、ナディは低い声でそう告げた。その言葉から察するに姿が見えなかったのは寝ていた為らしい。それなりの敷地面積故に目に付く範囲以外は気にしていなかったが、講堂を良き隠れ家と認識していたのはやはりレイヴだけでなかったようだ。
 つと、ナディを見据えた少女は彼の険悪な様子に真っ向から立ち向かい、微笑みを浮かべた。
「わたくしは女という名ではありません」
 しっかりとした口調で言い、彼女は床と垂直に立てた両手を胸の前で交差させ同時に腰を軽く沈めた。恐らく挨拶のような意味合いを持つ動きなのだろう。その推測を肯定するかのように、少女は名乗りをあげた。
「ホリィ教室に所属する一年生、ミンシアですわ。故郷では巫女・豊饒のミンシアと呼ばれておりましてよ」
 その言葉を聞いてレイヴがまず思ったのは、同学年だったのかと言う一点だった。ホリィ教室と言えば不思議の術を使う人材揃いと聞く。とすれば先程の舞も何らかの効果を持つものかも知れなかった。
 院に来てから、世界の枷から微妙に解かれた影響で顕在化したというのだろうか、レイヴは自身もまた何らかの術を操ることが出来る才を持つと知らされたが、未だ実感としては未知の領分だ。自身の知らない力を御する為、また理解の幅を広げる為にも術に関する講義を受けなければなるまいが、未だそれについては保留とさせて貰っている段階で、彼女の術士としての力が如何ほどなのかは分からなかった。
 各人の過ごしてきた世界基準は不明だが、恐らく丁寧な部類に入るだろう自己紹介を受けて、ナディは眼を細めたまま眉間の辺りを微かに動かしたようだった。
「知るか。ここは“院”だ」
 吐き捨てられた言葉に少女、ミンシアがびくりと肩を震わせる。
 確かに後半に付け足された部分は不要だった。どれ程の社会的地位、また力を持つ称号だと言うのか、それはその世界を知る者以外は知ることが出来ない情報だったが、幾分誇らしげに──そう、あれは崇められ讃えられる事に慣れた、有り体に言ってしまえばそれを目的とした調子で発せられた様子からすれば、自ずと推定できた。それを本人が明確に意図していたかどうかは、無論また別の問題だ。
 そしてナディが彼女の礼儀に最低限の応えも返していないと言うことも事実であった。
「ナディルヤード、先輩」
 その呼び掛けに青年は不機嫌な眼差しを転じた。
「会話をする場合、それなりの話し方があると思いますが」
 レイヴにどちらかの肩を持つつもりはない。しかしどうやら正常に機能しているらしい言語解析機能を通しても、まったく会話が成立していない状況と言うのも気になる。なにより堂内の静けさを奪った事をナディが不満とするならば、不本意ながら彼も一傍観者ではなく当事者であった。
 じっとナディから睨み付けられる視線を受け止め、レイヴはふいにある事に気が付いた。もしかすると彼は、睨んでいるつもりではなく──
「良いか、私はその女と話してるわけじゃない。ただ黙れと言っているんだ」
 それが出来ないなら追い出す、と続けられた言葉に、ミンシアはさすがに憮然とした様子で、しかし未だ落ち着いて口を挟んだ。
「わたくしが舞い踊った事で、ご迷惑を掛けた事はお詫び申し上げます。この通り心から謝罪いたしますわ」
 講堂は舞う場所ではないかも知れないが、そもそも彼個人の場所でもない。そう反証してやることも出来たが、無駄に自尊心が高い人間を刺激する必要性も見受けられず、レイヴは黙ったままやりとりを見守る。
 ミンシアの横顔は息を吐いた。自分が折れた事で、この件はもう良いだろうと思っているらしいと伺えた。
「分からない女だな」
 だがナディにとっては違ったようだ。指差していた方の手を額に当てると疲れと怒りを半分ずつ湛えた様子で言った。
「その口を噤めと言ったのが理解出来ないのか、馬鹿め」
 言いながら、何かを掴んだままの左手の中でナディはそれを転がしたようだった。指の間から垣間見えたそれは大きな石の耳飾りだ。
 それまで退いていたミンシアがふと顔を伏せて、肩に不自然な力を加えた。
「誰がバカですの」
 それは小さな呟きだった。
 泣いているのかも知れない、と思ったのは同時だったらしい。途端にナディルヤードが不審と不安を混合させた表情を浮かべ、少女を見守る。レイヴは比較的冷静な意識を知覚しながら、面倒な事に巻き込まれたなと思っていた。
 けれども男共の想像に反して、きっと顔を持ち上げたミンシアは涙を零してなどいなかった。
「あなたのような失礼な方は初めて見ましたわ」
 そう言い放つとナディが顔を出している辺りに向かって近付く。上から見下ろすような形で立ったのが分かった。ナディの表情は見えないが、再び不機嫌な色を宿した事は直ぐに知れた。
「ドタバタ動くな」
「ドタバタではありません。先程のものは祝福を祈る舞ですの。故郷と院と、わたくしが知るすべての大地と人に心を込めておりました。けれど、あなたの為には指一本の動きでも勿体なく感じますわ」
「呪いの舞の間違いじゃないのか」
「そのような舞がありましたら、あなたに掛けて差し上げたいですわ」
 対等に喧嘩している、と評して良いのではないだろうか。
 特にミンシアの憤然たる様子と口調は丁寧ながら内容は過激な辺りを見ると、堪忍袋の緒が切れると言う言葉はこういう状態を指すのだろう、と頭のどこかが納得する。それからレイヴは、ちらりと二人の方を見やって彼らが口論を白熱させている事を確認すると、膝上で一旦は閉じた本を再び開いた。
 幸いと言うべきか、二人は自分に責任の一端を負わせると言う思考がないようだから、後はお互いで収拾をはかって貰うのが一番だろう。
 世界を守る院の学生と言うと高尚な印象があったが、実際にはハイスクールと大差ない。字面と同時に意識に入ってくるやりとりをやり過ごしながら、レイヴはふと笑みを浮かべている自分に気が付いた。
「おい、本気で吹き飛ばすぞ」
 何かに耐えているような調子で男が言い。
「どうぞご自由に」
 高い声がそれに応えて笑う。
 けれども次に非難の声をあげたのは少女の方ではなくて。
「なんだこの凶器はっ」
 驚いた調子の大声がして、今度は少女が短く甲高い悲鳴をあげた。
「止めて下さい、髪の毛を引っ張らないで!」
 顔を背けるか何かの動作で、長い髪の毛の先が当たったのだろう。その言葉を疑わしげに反芻する。
「髪の毛? 随分と量があるな。しかもお前、女の癖に剛毛だぞ」
「先程から本当に失礼ですわね!」
 音階が高い分、彼女の声はよく響き渡る。
 何故ここまで話が盛り上がると言うのか、なかなか興味深い現象だなと思いながらレイヴはページを捲る。その指の動きが、唐突に割って入った三番目の声に気が付いて空中で止まった。
「悪い、そいつ眼が悪いんだ」
 振り向くと、一体何時の間に講堂内に入ってきたのか、短い白髪の男が歩み寄ってきたところだった。悪い、とは言ったものの彼の表情は謝罪する者のそれでなく、純粋な微笑みを浮かべている。
 ナディルヤードはミンシアの髪の毛を手放し、不満そうに舌打ちした。視力が弱いと言う言葉を否定しなかった事を見ると、どうやらそれは事実らしい。先程までのものも睨んでいるつもりではなかったのだろう。
「……ラグァか。何しにきた」
 軽快な足取りでミンシアの隣、即ちナディの目前まで迫った男は首をすくめてみせた。意識的な動作の筈だが、その唇の端を持ち上げた笑顔が健康的に見えるからだろうか、余り嫌味を感じさせない。
 大きな帽子の下で眉間が皺を刻み込んだ事には気付いているだろうに、ラグァと言う男は色素の薄い瞳を楽しそうに煌めかせただけだった。
「ほら、迎えに来てやったんだから感謝しろよ」
「迎え?」
 いい歳をした男がして貰うことだろうかと、ミンシアはその単語を鸚鵡返しに繰り返した。
 対して嗚呼と快活に応えたのは、当然と言うべきかラグァの方だった。
「昨日の試験の成績が悪くて憂さ晴らしに酒飲んで酔っぱらって二日酔いで死にかけてんの、こいつ。で、此処で寝かしてた。寮だと周りが五月蠅くて頭に響くんだそうだ」
 随分と丁寧な説明の最後に、男は戯けるように眉を持ち上げた。
 どちらかと言うと唖然としたミンシアが彼を見返す下で、椅子の背もたれに顎を乗せたナディが苦しげに呻く。
「五月蠅い……女みたいにべらべら喋るな」
 なるほど、改めてナディルヤードを観察してみると、ラグァの証言がおおよそ認められる様相だった。尚全面的でないのは、飲酒に至る原因部分が事実かどうか証拠不十分の為だ。
 頭痛がするのはアセトアルデヒド毒性の残留と血中カテコールアミンの上昇に因る物だし、脱水と低血糖が極度の疲労感を引き出しているのだ。つまり医学的に言えば二日酔いとは病態生理の状態なのである。
 ついでに言及するならば、寝かせるよりも水やブドウ糖を接種させる方が正しい対策だろう。勘ぐって見れば介抱するのが面倒で捨て置いた、とも見える状況だ。
「ま、次の授業は出ようぜ」
 迎えに来たと言う言葉通り、ラグァは友の腕を掴むと些か手荒い調子で引き上げた。ずり落ちかけた帽子を押さえたナディが顔を歪める。
「独りで行ける」
 大きな動作で手を振り払い、彼は唸る。これが本調子ならば噛み付かんばかりの勢いだろう。
「はいはい、何時も通り機嫌悪いね」
 その台詞が「何時にも増して」ではない辺り、レイヴの同室人がナディに与えていた評価は外れていなかったらしい。何処か床ではない場所を歩いているような怪しげな足取りのナディルヤードを無言で見送りながら、レイヴはそう思った。思いながら、呆気にとられてでもいるのか眼を瞬かせる以外の動きを忘れた少女を尻目に手早く自身の荷を手に取る。
 その動きが見えていたわけではないだろうに、レイヴが支度を整えた絶妙のタイミング──実際には彼がナディの背中を講堂から押し出した所で、ラグァは如何にも付け加えと言う風に振り返った。
「あんたらも急がないと、午後の授業始まるぜ」
 言葉の最後に彼は、既に準備を終えた状態でいるレイヴを見てにこりと笑った。その人懐こい笑みを残して、講堂から姿を消す。
 少女が声をあげたのは、分厚い扉が重厚な音を立てたその後だった。
「そんな!」
 ばさばさと何やら椅子の上に置いていたらしい荷物を掻き集める少女をおいて、レイヴは静かに通路を進んだ。時間配分は心配されずとも出来ている。次の講義はこの場から程近い中央校舎だった。
 扉を押しやると、鮮やかな陽射しがさっと空気を割って入っていった。短い金髪の先を風が持ち上げていく。
 それからレイヴは考えて、扉を開いたまま身体の向きを入れ替えた。
 気が付いたミンシアが小走りに駆け寄り、礼を言って通り抜ける。
「本当に騒がしくしてしまいましたわ。許して下さいね」
 振り向く拍子に髪を束ねた太い房が広がって揺れる。それを見ると、確かに当たれば痛いだろうなと想像出来た。
「わたくし、ミンシアですわ」
 少女が言う。その名はあの場に居た以上既知の事だったが、改めての自己紹介が求めている応えをレイヴは勿論理解していた。
「レイヴだ。サイファ教室の一年生をやっている」
「宜しく。良かったら今度、あのいけ好かない男をぎゃふんと言わせる方法を教えて下さいな」
 意外そうに目を見開いてから微笑みを浮かべる。そのミンシアの表情と言葉とにレイヴは心中で苦笑した。ナディルヤードの名を知っていた為に、知り合いだと思われたらしい。実際には聞き知っているだけなのだが、今それを訂正するのも興醒めな事であった。
 それにしてもこういう役目は、同じ顔をしたもう一人のものではなかっただろうか。
「……考えておこう」
 そう応じておいた自分の口元に、また笑みが浮かんでいる事に気が付いた。故郷ではついぞ味わわなかった現象だったが、その想いは不快でなかった。もしかすると、自分の本質はこちらにあるのかも知れない。
 それはそれで興味深い事だ、と思ってレイヴは次の一歩を少し強く踏み出した。
 この馬鹿げた日常に、祝福あれ。