あなたのいるべき場所へ

 通りを埋め尽くす喧噪。
 リートが見たこともない凝った衣装で着飾る人々。道端に敷き詰めるように並んだ露店。軽快な音楽と、日も沈み出す刻だというのに昼間を感じさせんばかりの明かり。華やかな、うきうきした雰囲気。
「のぅリート、面白いであろう?」
 立ち並ぶ店の一つでふわふわとした白い雲のようなものを受け取った少年が、頬を紅潮させて後ろを振り向く。少年の酷く興奮した様子に、リートも状況を忘れて大きく頷いた。
 この地に、自教室の教室長であるイクスと一緒の実習として降り立ったのは明け方のこと。与えられた仕事は、人に寄生する異界虫を回収後速やかに帰還。
 だと言うのに。
 今、リートは同年代だろう少年に連れられて、祭りに浮かれる街の大通りを歩いている。

 少年との邂逅も、今こうしていることの答えも、総てはつい一時間ほど前に遡る。
 地域範囲の場所は院のセンサーでも特定できたものの、その「特定地域」は、回って歩くのに一週間ほどかかりそうな範囲だ。ターゲットが今現在どこで誰に取り憑いているかと言う点までは現地での調査が必要だった。
 イクスは、その点においてこの実習を取らせるべきか否か迷った。万が一当たりが悪ければ、実習完了にどれだけの時間がかかるか。ふと考えさせられた為だ。せめて一日以内で回りきれる範囲ならば、と。もっとも情報機関を現在掌握するセトナと面識があれば、そんな事は本職を見繕ってやらせろと──その言葉通り、彼は元々センサーの扱いに長けていない──そう言うところなのだが。
 最終的にリートのやる気が決め手となり、この実習はルクティ教室に与えられたのだ。
 降り立ったこの街で、せめてもの準備にとフォウルから貸して貰った探知罫が鳴ったのはまさに偶然だった。
 実に珍しいことなのだが、幸運の女神が微笑んでくれたのだろう。……賃貸代償に次の休暇をフォウルに貸し出されると言うのが、不安ではあったが。
 何はともあれ、それすら良かったと答えられる程探知罫は精密で、やがておやつの時間が過ぎた頃には虫の寄生主も判明した。
 この虫は、特別悪さをするわけではない。ただ寄生して、主の摂取した脂肪分の一部を奪い取るだけだ。この虫が本来存在する世界では、その習性を利用して女性たちの美容健康のために飼われていると聞いている。
 そう言う意味では一刻を争う任務ではなかったから、学生へ預けられたのだろう。
 しかし本来存在しない筈のものがそこにいるという歪みは、やがて世界全体を歪める発端へと成りかねない。たかがダイエット虫一匹──と侮る事なかれ。
 その虫を人体から追い出すには、背骨の丁度真ん中辺りに寄生の徴として現れる黒い刻印を押してやる必要がある。しかしそれだけでは虫がどこから出てくるのか分からない上、どこかへ逃げてしまう可能性もある。
 イクスとリートが採った作戦はこうだ。一人がターゲットの後ろに近付き、刻印のあるべき部位を押す。その時もう一人は虫取り網で虫を捕まえる。
 原始的ではあるが、事実を話せない以上手っ取り早い方法を取るしかあるまい。
 尚、この実習内容を受けて教室内でもいかな作戦を採るべきか双子を交えて話し合われたのだが、リートは個人的に整体師を装ってツボを押す──と言うロアンの案が気に入っていた。整体を知っているわけではないが、変装という辺りに惹かれたのだ。
 そういう訳で、二人は別々にターゲットのいる建物前に張り込んでいた、と言うより待つよりほかに手がなかったので手持ち無沙汰にしていた。
 だから、ぼんやりしていたのかもしれない。
 唐突に背中に当たってきたものに、リートは対処できなかった。
「えっ?」
「うわぁっ!」
 前のめりに倒れ、反射的に前へ出した両手に路上の砂が付着する。細かい石が少し食い込んで痛んだ。
「すまぬ、無事であったか」
 先程ぶつかって来たのは、今リートを助け起こしたその少年のようだった。
 少年がリートの手を引いたところで、彼の背後──リートにとっては正面から、突然大きな声がした。思わずきょとんとしたリートの方に向かって、長い帽子を被ったこの国の兵士が数人……。
「いかん、逃げるぞ」
 身に覚えでもあったのか、言うなり少年は走り出した。
 リートの右手を握ったまま。
「え、ええ〜?」
「リート?!」
 目の前を通り抜けていった二人の少年に、イクスが驚いて声を掛ける。しかしそれに応じるより早く、リートは祭りの人混みの中へと引きずり込まれてしまった。

 数十分後──
 息を切らせて、二人は人通りのぽっかりと抜け落ちた公園の片隅に座り込んだ。
「そなた、何故付いてくるのだ」
 何処までも何時までも。御陰で走りにくかったと難癖付ける相手に、リートはまず他意はなく頷いた。それから未だ繋がれたままの手を持ち上げる。
 それを見て、事態を理解したのか少年は慌てて手を離すと、大人がことを誤魔化す為に浮かべるような笑みを浮かべた。
「すまぬ。気付かなかった……しかしこれも聖ミケヤのお導きかも知れぬ」
 それはこの祭りに冠せられた名前だった、と思い出しながらリートも微笑みを浮かべた。それで少し警戒が解けたのか、少年は改めて右手を差し出す。今度は握手のために。
「我のことは、サ……サケルと呼べ」
「僕はリートです」
 名乗ってしまってから、さて大丈夫だったかとおっとり今回の実習規定を思い出す辺りがリートらしい。
「リート」
 再び繋がれた手を振って、ふうん、とそう首を傾げた姿は、ふいにサケルと名乗った少年を幼く見せた。
「変わっているが、いい名であるぞ」

 それから、二人は祭りに溶け込んでいた。
 自分も色々と目移りしながら博識ぶりを見せるサケルと、見るもの全てがとにかく新鮮で面白いリートと。
 雲のような形の甘いお菓子を口に運びながら、リートはふわふわと微笑んだ。
 かれこれ一時間は経っている。恐らくイクスは困っているだろう。ターゲットがまだあの建物にいるにしろ出て来たにしろ、あの作戦は二人でやらなければ意味がないのだ。
 それなのに、共にはしゃいでいる彼をおいて帰ると言う意思はどこからも湧いてこない。一応張り込み先に戻る形で進んでいるから大丈夫だろう、と明るく心中で一度謝罪した後、リートは実習のことを忘れた。
 お互いに自分の感想を述べたり、珍しい食べ物に舌鼓を打ったり、さながら十年来の親友であるように二人は楽しんだ。
 周囲の人々も楽しそうに歩いている。
 籠いっぱいの果物を抱えて練り歩く婦人、大人の足の間をすり抜ける子供、的を射る遊びに夢中になっている青年、人々に声をかける露天の主たち──
「──!」
 まだ少し遠すぎて、呼びかけの一部が人々の声でかき消されたけれども。
 再び聞こえてきたあの大きな声と前方に現れる兵士たちの姿に、サケルは突然歩みを止めた。半呼吸早く気付いていたリートは、彼がその瞬間表情を堅く、無理に強張らせたのが分かった。
 そのリートの方にも。
「リート!」
 呼ばれて振り返った先には、教室長が随分と探したのだろうくたびれた様子で。手にした虫取り網のせいで、周りから奇異の眼差しで見られているのが、少し恥ずかしそうで。彼とは三mと離れていない。
 少年たち二人はお互いに顔を見合わせ。
 どちらも何も言う迄もなく、ここまで走ってきた時のように手を取り合った。
 綿あめが、真実雲のように空を舞った。

 掴まれた手がとても小さくて。
 温かかった。

 人混みの中、小ささを生かしてすり抜けて、大通りに交差する狭い路地の一つを曲がる。
 その通りは大通りとの賑やかさからは想像が付かないほど寂れていて、息苦しい空気に溢れていた。一瞬サケルはそれに怯んだようだったが、彼を見つめるリートを見遣り返すと直ぐに駆け出す。
 道は細く、左右に迫った建物の壁で地上に投げかけられていた最後の輝きすら遮られ薄暗い。足下を照らすのは、家々の窓からこぼれ落ちる幽かな灯り。
 お互いの息を切らせる音が。
 ふいに──目の前の扉が開いて、二人は中から出てきた男にぶつかった。
「何しやがる、この餓鬼──!」
 目の前で持ち上がった少年の身体に驚いて、リートは出てきた男の顔を見上げた。猫を捕まえる時のようにサケルの首根っこを押さえているのは。
「あれ? 寄生虫の人ですよね」
 男は榛の眼を剥いた。突然訳の分からない事を言い出した子供に、不快感を催されたのだろう。喚いているサケルをそのまま自分の肩に引っ掛けると、リートの前に仁王立つ。
 だがリートは、いつの間にか張り込んでいた建物の裏を通っていたことに感心していて、その不穏な空気に気付けない。
「その餓鬼……」
 自分が呼ばれたのは分かって、リートは微笑みを浮かべた。
「お腹の虫、大丈夫ですか?」
「何をわけの判らんことを!」
 リートにはその時、横手から追い付いてきたイクスが叫んだのが聞こえた。
 サケルは男が大振りのナイフを取り出したのを見て、男の背中でめちゃくちゃに手足をばたつかせた。
 その、当たった場所が虫の刻印だったのは、ほんの偶然だ。
 己の胸部から虫が飛び出してきた驚きで男は一瞬怯んだ様子を見せた。その手首に、イクスから投げ付けられた虫取り網が衝撃を与える。
 手から転げ落ちたナイフと。
 男の振り払った虫とが。
 地面に落とされた網の中にすっぽりと収まった。
 背中からずり落ちたサケルをリートが立ち上がらせ、漸く現場に到着したイクスが、これも怪我の功名と言うのか捕まえることが出来た虫を収容瓶の中に入れる。
 そもそも身の危険を感じていなかったリートと。何故二人がこうしているのか判らないイクスと。二人の目的と虫を知らないサケルと。
 それぞれ事情を知らない三人が、不思議な思いで顔を見合わせた後背から。
「いらっしゃったぞ!」
「お戻り下さい!」
 サケルは弾かれたように立ち上がって、リートの手を取った。すぐに狭い路地の奥へと走り出す。
「え、おいリート?」
「イクスさぁん、早く〜」
 揺らされ間延びして聞こえるリートの声を追い掛けて、イクスは何故自分までこの国の兵士に追われて走っているのだろうと嘆息した。

「この角でお別れだ」
 兵士たちを撒いて、三人が何故か無性に可笑しくて笑い転げていたところで、ふいにサケルはそう呟いた。ぽつりと、零された言葉に二人の異邦人は視線をやる。
「今日は楽しかったぞ、リート。しかし我は家に帰らねばならん」
「……僕も」
 彼とは少し、違うのだけれど。そう思って、リートはまた微笑む。
 イクスは立ち上がって、そんな二人の会話から少し遠ざかった。
「リートは何処に住んでおるのだ?」
 ほんの僅かな、しかし強い期待を込められたサケルの問いに首を振る。
「遠いところです。今日は、特別に」
 そうなのかとサケルは顔を伏せた。そうすると、長い赤の前髪が彼の表情を隠してしまう。リートはそんな彼の手を取った。
「僕、今日はサケルさんに会えてとても楽しかった」
 ふいに、リートはサケルの足下に小さな水溜まりが出来ているのに気付いた。
「……我もそなたに逢えて良かった」
 目元を拭う袖。
 瞳と瞳が向き合い、通じ合う。
「忘れぬぞ、そなたのこと」
 言葉を残して、サケルは踵を返した。

 いつの間にか夜風が、身体の熱を奪っていた。傍らに立ったイクスが、防寒着を肩に掛けてくれる。それを感じながら、振り向くことなく角を曲がって消えた友に、リートは揺らいだ微笑みを浮かべて呟いた。
「僕はきっと、貴方が結婚して子供が出来て……亡くなられても、覚えてますよ」
 せめて故国ならばまだしも。リートの上を通過する時の流れと、サケルの住まう世界の時とは違う。だから、赴いた地でその一時しか共にいられないだろう人に情を移すのは危険だった。
 それを知っていて、それでもリートは心配顔のイクスに笑顔を向けた。

「帰りましょう、僕たちの“院”に」