ちぇんじ
こんなことに肯いたのは、相手が天麗だったからだ。
いつも引っ込み思案でどちらかと言えば焦れったく思っていた彼女が、珍しく推したから。それなら、偶には好きにさせても良いかと……
そう言うつもりだったのに。
気が付けば何時の間にか、天麗が扱うはずだったそれに嬉々として向かっているのは黒髪の先輩で。
はるかは、先程から熱心に彼女の頭に熱風を送っている天麗に恨めしい視線を送った。
「はい」
先刻まで熱心に人の顔になにやら塗り込んでいた先輩──エファ=ミレオに、金属製の華奢な道具を渡されたはるかは、暫し無言でそれを見つめた。
手鏡を持ち上げたエファが、黙したまま動かないはるかに綺麗な半月の眉を寄せる。
「ひょっとしてビューラー使ったことない?」
「びゆらぁ?」
使った事が以前に、果たして何の役割をする道具だと言うのか。女性らしいことをする必要も、暇もなかったはるかにとってこれらの道具は精々、見たことがあるなぁという程度の品だ。
何を言われてもずっとこんな調子のはるかに、業を煮やしたエファが渡したばかりのビューラーなる道具を奪い取る。
「これはね、睫毛をカールさせる為に……って、眼閉じちゃダメよ」
突然目の前にその道具を持ってこられて、眼を閉じるなと言われても難しい。
自分が手にしていた時とは違う、なにやら正しい持ち方をしているのだろうエファの手の上で、その道具はまるでハサミのようにも見えて、余計恐ろしい。
「これも実習の為でしょ」
果たして本当にそうなのだろうか。
疑問が浮かびつつも、はるかは他に仕方なく水泳の後の眼球洗浄に挑むような様子でひっしと瞼を開いた。
が、その視界一杯をビューラーとやらが占領して腰が引ける。だが完全に逃げるより一瞬早くはるかの腕を掴んだエファが、その道具であっさりとはるかの瞳を縁取る物を挟み込んだ。
瞼の先にふにふにと妙な感触が伝わり、硬直する。
「はい、反対」
もう片方の眼にもそれを当てられて、ほんの数秒なのだろうが終わった時にははるかはどっと疲れが出てしまった。
天麗は相変わらず真面目な表情で人の髪の毛を弄っている。
その前には大切な眉毛の一部を剃られてしまったし──果たして生え替わってくれるのか、はるかとしては非常に気になるところだった。
「じゃ、次もなるべく眼を開けててね」
そう簡単に言って、エファは何やら黒いブラシのような物を眼のすぐ側で動かす。意外と睫毛に触れられると言うのは、くすぐったいものなのだと、はるかは知ることになった。
「なんだか……重い」
ブラシが退かされても目の先に違和感を感じる。
「マスカラ塗っただけよ」
こともなく言われ、振ると音が鳴る楽器のことかと思って、一瞬変な顔をしてしまう。ああ、あれはマラカスだったか。
それにしても何となく目元が気になって、はるかは睫毛に手を──
「不許可よ」
──やろうとして叩き落とされる。
だがむっとして突き出した唇に、そのまま紅も塗られてしまった。その手際の良さには感嘆するしかない。
はたかれる粉と肌の上をくすぐるはけを避ける為、眼を閉じる。
髪の毛を梳いている天麗は、なんだか軽快なリズムを口ずさんでいる。ゆっくりと聞き惚れたいところだが、今は彼女たちに玩ばれている状態だ。
ふいに手が持ち上げられ、爪の上を冷たい物がはしった。
「な、なんか爪がくすぐったい」
爪の呼吸を止めているようなものだから、と説明するエファもマニキュアの作業には真剣な表情で向かっている。
「あのさ……」
「はい、終わり。天麗も出来上がった?」
ここまでしなくても良いんじゃないか?
そう問おうとした言葉は遮られる。そして何処か楽しそうにも見える二人の運んできた鏡の前で、はるかは息を呑んだ。
柔らかい声音で名前を呼ばれ、天麗は振り返った。少年──リートとの身長差で見下ろす拍子に艶やかな黒髪が滑り落ちる。
「おかえりなさい! はるかさんと実習だったって聞きました〜」
どうだったんですか? などと口で言う以上に雄弁な顔が聞きたそうにしている。天麗は最近言葉を交わすようになったこの後輩が、好きだった。
それに、この少年と話していれば彼の話を聞けることがあるし……
今日は取り敢えず自分の方が話してやるべきだろうと思って、天麗はリートに誘われてベンチに腰を下ろしながら、ゆっくりと話し始めた。
「今回は捜査が必要だったから、はるかに“こぎゃる”と言う種族に変装してもらって──」
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