悪の十字架

「“恐怖の味噌汁”て知っとるか……?」
 新入生合同で行われる精神訓練の為の“塔”合宿であったが、常と場所が変わり、また何時もの寮生活よりも大人数で寝泊まりするとなれば、年若い者が多い彼らが、就寝時間を経ても秘かに部屋に集まり、他愛もない話に花を咲かせるのは無理ないことだった。
 実際、学生同士の親交を深める機会として、教官たちも黙認していると言う。
 この部屋でも、数名が思い思いのくつろぎ方をしつつ、何かしらを話していた。そんな中、まるで秘密の話をするかのように低く発せられた謎の単語に、興味が向かない筈もない。
 ルクティ教室の新入生であるリートは、毛布から顔だけを出した状態で発言者の方に首を回した。
 冒頭の台詞を発したのはベーギュウム教室のスィフィル。リートには馴染みの深い友人。と言うのも、彼らは寮でも同室になっている為だ。
「ミソシルって何だよ」
 一人が尋ねる。リートも耳慣れない言葉にスィフィルの回答を待つ。
「何って──味噌汁知らんのかい」
 思わず、スィフィルの声が普段の高いキーに戻った。
「知らないって」
 未だ“院”に来て時の浅い彼らは、こうして互いの世界に様々な違いがあることを知る。
「えと、出し汁に味噌……ま、調味料やね。それを溶かして、野菜やとか豆腐ぶちこんで煮たもんや」
「トウフ?」
「ああ面倒くさ! 食べ物や!」
 自分にとって普通の常識が通じない。少しばかり苛立って、スィフィルは臍を曲げた。
「──ミソシル、食べ物なんですか?」
 そもそもよく説明が分からなかったリートは、そう口を挟んだ。
「そや言っとるやないか」
 言ってないよ、と誰かが暗い部屋の中で茶々を入れて、皆は何となく声を立てた。
「ま、要するにスープみたいな物か。で、何が恐怖なんだ?」
 最初の話題に戻ると、スィフィルは機嫌を直して人好きのする笑顔を深めた。勿論夜目の聞かない者が多いから、それは見えなかったけれども。
「恐怖の味噌汁の話。聞きたいか?」
「聞く!」
「勿体ぶってないで教えろよ」
 怖い話なのかな、と思いながらリートも首を縦に振った。
 今度は薄闇の中でも、スィフィルが楽しそうにしたのが分かった。
「ええか、これはホンマにあった話や」
 すっと再度、彼は地の底から響いてくるような低い声で話し始め、無意識の内に各人はじりっと円陣を狭めた。
「ボクが朝目が覚めると、台所の方からとんとんとんとん、って音が聞こえたんよ。あ、包丁の音やな、と直ぐに思ったわ」
 一部反応が悪いのに気付き、スィフィルはまな板の存在を少しばかり説明する。
「ほんで、もう朝御飯の用意しとんのやな思て、ボクは部屋から出た」
 ごくり、誰かの喉が鳴る。
「そしたら、やっぱり台所で母はんが朝御飯作っとった。んで、ボクが『何作っとるの?』て聞いたら、母はんゆっくり振り向いてな」
 明確に設けられた一呼吸。
 全員の神経が次にスィフィルが言い出す言葉に注目している。
「母はん、『キョウフノミソシルだよ』って」
 ………。
「は?」
「いや、やから『今日、麩の味噌汁だよ』って」
 味噌汁を知らない面々に、麩を知っている者がいる筈もなく。
 何より、その場のノリから怖い話だと信じ切っている相手に、オチを馬鹿丁寧に説明する気も失せ。
「……いや、悪かった。なんでもないんや」
 笑い話を披露したつもりが、急に周囲がなんとも言い難い雰囲気になってしまったのを見て、黙りこくるスィフィル。
 それをぼんやりと眺め、場を和ませようとリートは話を始めた。
「ねぇ、みなさん。“悪の十字架”って知ってます?」