Flying

 ふわり、と身体が宙に浮かび上がる。

 地面を蹴った左足。
 風の中で腕が広がる。
 猫のように身をかわす。
 大気に包まれる体。
 視界一杯の空。

 一瞬の空白の後に訪れる──墜落感。


 魔法が使えたら、と彼女は思う。


「凄いですね」
 何時から来ていたのか、その少年はまだ空を向いたままだった視界に入ってきた。
 黒髪が陽に透けて、辺りを映し込んだのか緑色に見える。
 はるかは黙ったまま、投げ出していた腕を瞼の上で交差させた。
「跳ぶの、好きなんですか?」
 好きなのかな?
 少年の問いかけに、考える。
「……そうだな」
 暫くして首肯した。
 なにもかもに反発したくて身に付いた男言葉。
「身体が宙に浮いている間は、頭の中がからっぽになって、なにもかも忘れられる」

 目の前のバー。
 一つ前に跳んだ競争手。
 競技場を埋める歓声。
 期待。
 そんなものに包まれながら走り始める。
 前へ加速したスピードはある一点で上へ持ち上がる力になる。
 そこで弾かれたように出た左足が空への切符を切る。

「頭がからっぽ、ですか?」

 それは、ほんの刹那の至福。

「君はないの? いろんなことから逃れたい気持ちが、さ」

 肩が地面についた途端に、世界が甦る。
 それを知っていても、空を「飛ぶ」瞬間だけは幸福なのだ。

「……わかりません」
 少年は空を見上げ、はるかもそれに従った。


 魔法が使えたら、それでも空を「飛ぶ」だろう。