拝命
「私、最近、庭園でお花の手入れをしているの」
フォウルに連れられて訪れた院の深部で、刹は視線を下げたままその女性の言葉を聞いていた。
とは言えその心中では、突然連れてこられた為に着替えることも出来ず、着の身着のままの格好であることを後悔してみたり、なんにせよこれが初めての正式な公務だと言うことで緊張したりで、言葉は耳を通り過ぎるばかり。
「院にいる人たちの顔が……見えるし」
正面に腰を下ろしたアエネラ──その背後に控えて、先程から顔を上げようとしない刹に、嫌味のない表情で苦笑しているセトナ。
刹のすぐ傍でソファに深く腰を沈めたフォウルが、生返事をする。
そんな様子にアエネラが微笑むと、辺りの空気が華やぐ。
彼女の掻き上げた髪までが、しゃらりと綺麗な音を立てるようだった。
「皆の言っていたあの子にも、会ったわ」
「ルクのとこの?」
フォウルが少し話に気を引かれた声を出したので、刹がちらりと眼を上げる。
ルクティの受け持っている学生で、アエネラの言う“皆”が話題にすると言うのは誰だろう。
「これから、貴方も大変ね」
本当に思って言われているらしい。
それが分かるから、フォウルは適当な慰めも無意味な自信を示す言葉も、逆に否定的な言葉も発さず、腕を組み直した。
普段口数の多いフォウルが口を閉ざしている──これは、本当に大事な話なのだ。
「刹」
ふいと呼ばれた名前に、視線がぶつかる。
アエネラは席から立ち上がるとセトナが差し出した紋章を手に取った。
片眼を覆われている為に多くのものが平面に見えてしまう刹の視界で、それでもその人は美しかった。
「公安として私達の“白”を補佐することに異存ありませんか」
主に外務に気を向けていなければならない白に代わり、院内の事務に関わる重大な役目。
「……おれ──」
それは敬愛するフォウルを手助けできる、望んでいた役職だけれど。
どうしても、これだけは。溢れ出る言葉を押し止めることなど出来なかった。
「おれ、あなたの命令は聞きません」
この場にいるのがフォウルとセトナでなければ──そう、例えば規律正しいカイならば、酷い騒ぎになったに違いない。
育ての親がフォウルであるという後ろ盾以外、何の力も持たない少年が、院の最高位に存在する姫の言葉を拒否したのだ。
だが、立会人の二人は明らかな不敬行為にお互い視線を交わして肩を竦め、当のアエネラは刹がこの部屋に入ってから一番の笑顔で微笑んだ。
「ええ、貴方に命じることが出来るのはフォウルだけね」
“白”の直属になると言うのは、要するにそういうことだ。
「だから、これはお願い」
言われてその言葉の重さを噛み締めるように肯いた刹に、アエネラが公安の紋章を──それは形式的なものだけれど──受け渡した。
手の中のそれに目を落とすと、麗人は柔らかく微笑んで刹の耳元に顔を寄せる。
大気の振動が鼓膜を掠めた。
「フォウルを助けてあげてね」
囁かれた言葉に、刹は強張った頬を解くとアエネラに負けないくらいの笑顔を浮かべた。
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