イクスのとある一日 7

 幻だと断じておきながら彼女の名前を呼んだ、自分の声で目が覚めた。ひりひりとした舌の痛みが蘇って、完全な覚醒を促す。
 これは、現実だ。
 白い輝きが視界にある。薄暗く閉ざされた部屋の中で、それだけが輝いて光を放っていた。
 靄のようなものが暫く鼻先でわだかまり、やがて霧散していった。それと共に、光だと思ったそれが薄まる。
 目の前に突き立てられた刃が机に穴を穿っていた。革が柄に巻き付けられている短刀。それを掴んでいるのは、暗闇に溶けながらも溶け込みきれない浅黒い肌。
 もう一方の手にやはり抜き身の長剣を引っ提げ、それがイクスの肩に触れる絶妙の位置で押し留められているのが分かった。
 そして、頭の上に確かな重み。
 イクスが目覚める呼吸に合わせて、長剣を引いたのはやはりラメセス・シュリーヴィジャヤ。身を不自由にしていたものが鞘に収められ、イクスは頭の上に手をやる。
 触れるのは収まりの悪い髪の毛と、温かい──ひな。
「何がなんだか……。説明してくれよ」
 知らないうちに何かに巻き込まれていたらしい。
 流石にそれが分かって、イクスは息を吐いた。
「リカルドか、その鳥にでも聞け」
 何故そこでリカルド教師の名前が出てくるのだろう。
 取り付くしまもない、不要な事をすべて切って捨てる口調。苛立たしげに掻き上げられ、乱れ飛んだ金と黒の髪に向かってひなが鳴いた。
 そう言えば、あの“夢”を打ち払ってくれたのはこのひな、だったのだろうか。
 ラメセスの言うようにひなと話が出来れば困りはしない、とイクスはふいに沸き上がった微笑みを頬に浮かべた。
 ……ラメセスは夜目が利く。笑みを見せたイクスに顔を顰めたようだった。
 魔法のように机上の短刀が消えた。彼がこうして眼に見えないように武器を携帯しているのは、イクスにとって目新しい事実でない。
 暗器、いわゆる隠し武器を主流に操るのは院ではラメセスとルクティ教師くらいだが。
 イクスはゆっくりと視線を机に移した。
 思っていたよりも深い穴が穿たれたそこに、干涸らびた物が残されている。
「夢魔の一種だ」
「むま」
 それは、夢の中に現れて人間を窒息させてしまうと言う悪魔?
「さあな」
 掴み上げられたそれは親指ほどの大きさで、よくよく顔を近付けて見れば押し潰された人の形に尾が付いているようだった。
 もっとも観察は、ひながイクスの髪を引っ張るのでほんの数秒しか出来なかったが。
「ひょっとしてこれが」
 自分に憑いていたのか。
 夢魔と言っても色々あるのだろうが、余りいい気持ちのするものでなかった。
「リカルドの話では、不幸な人間に幸せな夢を見せて取り込むタイプだと」
 幸せな夢を破って悪かったな、と口には出されない皮肉が続いていた事にイクスは気付かなかった。

 結局対して言葉を交わせないままラメセスが出て行ってしまい、イクスはひなを抱きかかえると諦めに似た息を吐いた。
 正直な話よく分からなかったけれども、今日一日眠かったりしたのは時間帯と出てきた名前から察するに、リカルド教師の研究室にひなを預けた際に夢魔に取り憑かれた為で。ひょっとすると再会の折りにひなから手痛い一撃を喰らったのもその為だったのかも知れなくて。
 何故ラメセスがそう言った事情を踏まえていたりするのかと言えば、恐らく発覚を恐れて──イクスへ、ではなくカイ教師辺りへのだ──リカルド教師が依頼したのだろう。研究棟へ赴く彼を見ていたことだし。
「……そうか、斬り損なったのは俺じゃなくて夢魔か。よかった……」
 まさか級友から本気で剣を向けられていた訳ではなかったのだ、とイクスは今更ながら安心出来て、ほうっと今度は安堵の溜息を吐く。
 じっと円らな瞳が様子を見守っていた。
 それに対して微笑み、イクスはひなを撫でてやる。
「俺を助けてくれたな……ありがとう」
 その通りだと言いたげに、満足そうな顔で細められる瞳。青みがかった尾先が揺れる。
 今日一日でも色々な事があった。それが全て理解の範囲に収まったわけではないけれど、それらは結局明日へと続く日々の中では些細なことなのだろう。
 安らいだひなの姿を見ていれば、気になっていた事や一夜の夢のことなど、遠く感じて。
 漏らされたひなの寝息を手の平に感じながら、イクスは寝台に戻ると再び瞼を閉じた。
 明日は永遠に掴めないかもしれない。
 それでも今は、確実に明日に繋がっている。
 いつか──騎士として帰れる、その明日へ。
 緩やかな夢に絡められていくその耳に、微かに優しくてどこか懐かしい子守歌のような旋律が聞こえた、気がした。
 遠く、彼方から呼ぶ声がする。
『ねぇ、イクス』
 ──はい、メルエディア様。
『きっと貴方は、院の騎士になれるわ』
 ──院の騎士?
『この世の何処かに、世界を見守る騎士がいるのですって。総てを見守る騎士。きっとイクスならばなれるわ』
 ──姫一人を守るのが精一杯の自分に、総てを守るだなんて大任は。
『違うわ、イクス』

「世界を守るのは、守りたいと願う心だ」

 音は、鼓膜を震わせて聞こえた。それも近過ぎるほどの位置から。
「……フォウル様」
 唖然とした思いで眼を覚ましたイクスを二対の猫目石が覗き込んでいた。
 圧迫感があったはずだ。フォウル:オナー・ホワイト、栄光の白と呼称される彼は戦士としてはやや小柄だが、その身体には無駄のない筋肉が付いている。
 窓から射し込むうっすらとした光に照らされ、目の前の瞳にどこかやんちゃで愛嬌のある光が浮かぶ。
 当代最高位の騎士が手を伸ばした。
 咄嗟に身を固めて、しかしフォウルが触れたのはひなだった。未だ眠たいのか、くぅと音を漏らしながら体を震わせる。
 その動きの邪魔にならないよう気を付けながら上半身を起こしたイクスは、果たしてこの非常識な訪問が何を意味しているのかと考えた。
「お前が変わった鳥を拾ったって聞いたからな」
 見物に来ただけ。
 彼が読心術でも心得ているのか、それとも余程自分が分かり易いのか、フォウルは明るく答えを与えた。
 恐らく彼に人の部屋を訪問する際の常識だとか、非常識を説くのは意味のないことで。
 しかし、今は空間転移が危険な区域にいなかっただろうか。とすれば部屋に入ったのは扉か、窓からで。
「開いてました?」
 昨夜のラメセスも、そう言えば簡単に扉を開けていたけれど。
「ん、昨日の内に鍵が無効になる術を掛けといたから」
「……は?」
 新開発の術でさ、と嬉々とした様子で語り出すのは構わないのだが。
 フォウルの操る不可思議の術には慣れたつもりだったが、昨日の授業の手合わせで“イクスが掛けた鍵はすべて無効になる”術を掛けられていたらしい。
 ──副作用がなければいいのだが。
 何とも迷惑な術を編み出されたものだと思って、イクスはずるりと背中を壁に預けた。拍子に頭上から目覚まし時計が落ちてくる。
「オレの知ってた飛び切りの騎士も、霊鳥を連れてたな」
 転がってきた時計をイクスに放り投げてから、フォウルは立ち上がった。
「ま、飼うなりなんなり決めたらオレに連絡しろよ」
 好きにしていいけどさ、と言いつつひなの頭を軽く小突いた彼が窓を開けて出ていこうとするのを咄嗟に止めた。
 一つだけ、聞かねばならないことがある。
「フォウル様は、世界を守りたいと思われるんですか」
「まさか」
 瞬時に返され、イクスは恐らく今自分は間の抜けた表情をしているのだろうと思った。
 どうして、そう笑えるのだろう。
 自分が言っておきながら「そうではない」とまるで正反対の事を言い出す“院の騎士”を、イクスはまじまじと見つめた。その顔を、嫌味が抜けた人懐こい笑顔がかわす。
 背後から差し込む朝陽が、眼を射る。
「オレは、いつだって自分の大事なものしか守ってないさ」
 世界なんてどでかいものを最初から相手にしようとは思っていない。自分の身近で大事なものを守る、その延長。
「そんなことも忘れたのか?」
 揶揄するような声を残して、猫は窓枠から飛び降りた。

 遅れて覚醒したひなが鳴き出す。
 昨日と明日に似て非なる今日が始まる。他の誰のものでもない、イクスの一日が。
 それだけは確かな事実だと心中に呟き、イクスはひなを連れて窓辺に立った。
 自分が世界を守るとすれば、それは友や家族や敬愛する人を守ること。世界を守ることの延長に個人がいるのではなく、個人の延長に世界がある。
 メルエディアは世界の騎士になれると言った。
 自分はそう言ってくれたメルエディアを守る騎士になりたい。
 それならば、自分は何時か院の騎士になれるのかもしれない。
 彼女の下へ馳せ参じられるだけの自分になれた、その時に。
院の騎士に。そして貴女だけの騎士に
 感傷と静寂を破り、けたたましい電子音が喋り出した。例の時計だ──どうやらフォウルは電源を切って行ってはくれなかったらしい。
 そう言えば冷蔵庫の中身は空だった。今日は食堂へ行かねばならない。
 教員棟へ赴く日課も忘れてはならなかった。今日こそは伝達を忘れられないよう、しっかり確認しなければならない。
 イクスの一日は忙しい。
 さて。
「お前はどうする?」
 問われたひなは再びぴい、と誇らしげに声を上げた。
 その音が、院の青い空へと吸い込まれていった。