de bon matin

 アーデリカの一日は、太陽が昇る時間きっかりに始まる。
 勿論、太陽と言っても完全に閉鎖された一つの箱庭世界である“院”のそれは、一分一秒もずれることなく毎日同じ時に地平線から生み出されるのだから、慣れれば同時に起き出すことは訳もない。
 今日も何時もと変わらず目が覚めると、上半身を起こした姿のまま、寝台で一日の予定を想起する。
 それが一通り終わると、すらりとした肢体から手早く薄い寝間着を脱ぎ去り、簡単な衣装に着替える。床に落ちた寝間着の柄がデフォルトされた猫のキャラクターな辺り、アーデリカの神秘的な美貌には不似合いで、アンバランスさを生んでいた。
 取り敢えず早朝のジョギング用に揃えた、花柄のノースリーブとハーフパンツを常と同じように身にまとい終わると、軽く顔を洗い、それよりも熱心に長い栗色の髪を梳かし出す。
 あの猫柄の寝間着だって、彼を思い出させるから衝動買いしてしまったのだ。
 今日は会う予定はないけれど、同じ敷地に住んでいるからには、会えることもあるだろう。
 そう思うと、彼が好きだと言った髪の毛に対する手入れは、必要以上に念入りになるのだ。動きの邪魔にならないように、緩く三つ編みを作り終わると、アーデリカはスポーツタオルを片手に部屋を飛び出した。

 が、部屋の前で教室の後輩と鉢合わせし、たたらを踏む。
「リカ、おはよ」
 明朗な彼女はしかし、朝から訓練に出掛けるような種の人間ではない。
 アーデリカが教室長を務めるサイファ=ベーギュウム教師の教室は、男女比率で女性が多い珍しい教室だった。華やかなその中において、纏め役たるリーダーがアーデリカならば、その補佐は彼女であったと言える。
 学年こそ違ったが、年齢はむしろ彼女の方が上なこともあって、二人は対等な親友だ。
 生まれた世界も違ったが、この年代の少女たちには異文化すら簡単に受け入れられるものらしい。否、“院”に学ぶものともなれば、他世界の理解を持とうとするのは当然の行動でもある。
「おはよう、こんな時間に珍しいわね」
「人と会ってたの」
 ああ、ロアンか。とアーデリカは一人の青年を脳裏に浮かべた。ロアンは所属する教室も学年も違ったが、派手な交友関係の為に良く知られた人物だった。
 それにロアンの所属する教室は、アーデリカの友人でもある青年が教室長を務めているのだ。加えて自らの親友の彼、ともあれば自然気にもなる。
 尤も、彼も彼女も数ある友人の一人、と言う感覚のようだけれど。
 ドライな関係には、異文化というよりも自分とは相容れない意識の差を感じて、アーデリカは二人の関係には口を出さないことにしていた。
「教室長としては、授業に遅れなければ大目に見るわ」
「大丈夫よ。一限目の授業なんて入ってないから」
 アーデリカは一限目にやたらと授業を入れてしまった事を思い出し、ウンザリした溜息を零した。
 学年ごとに定められた必修授業とは別に採る、選択単位。これは上級生と初級生では大きく中身が異なり、上級生であるアーデリカにはより専門職の強い授業が選択出来、一方初級生は基礎的な授業が用意されている。
 その他に教室毎で受ける教室授業が存在し、これは教室長たるアーデリカがよくよく監督しなければならない場面もあって、通常の授業以上に気が抜けない。
「一限がマーシャルアーツなの。その前に準備運動してくるわ」
 自分の格好を指さして言うと、彼女は「お気の毒に」とにこやかに呟き、玄関まで見送ってくれた。

 爽やかな一陣の風が身体を通り抜け、アーデリカはふと足を止めた。
 この太陽も、風も、空気も。
 全てが管理されたものだなんて、本当なのだろうか。
 移動存在である“院”は多世界からの影響に弱い。それを防ぐため、院の敷地を外界分断装置ドームが覆っている。
 それは同時に、“院”と言う名の世界をコントロールする装置でもある。
 ドームを操れば、一瞬にして気候が変わる。その気になれば、空気を失うことだって可能な筈だ。
 その術と権利を持ったただ一人の人、“院の姫”。
 そんなモノの後継として選ばれて、密かに教育を受けて。
 知るほど、“院”を不安定だと感じる。
 ほんの一握りの人々で動かされる、強大な力を有する移動要塞“院”。その頂点に立つことへの畏れが、実はある。

「なにしてるんだ、リカ」
 唐突に現れたその人は、見慣れた猫眼をしていた。
 今日は会えないかもしれない。そう思っていたフォウルとこんなにも早く出会って、アーデリカは驚くと同時に途方もなく安心した。
「この素敵な天気も、管理されてるのかと思って」
 美しく青に澄み、そのくせ日差しも眩しすぎない空を指差して、何のことはないのだと笑う。
 その様を見て、彼“白”のフォウルは直ぐに応じた。
「お前が今立っている大地もお前が今見ているオレも、紛い物なんかじゃないぜ。消えて失くなったりしない。安心しろよ」
 彼は確かに子供のような側面を見せるけれど、人が思っている以上に、とても鋭敏だ。
 だから人が悩んでいる時に、自分の言葉で、一番相手が欲しい言葉を言ってくれる。
「……ええ、そうね。わたしがここにいて、あなたが目の前にいる。これは本当のことね」
 ここに立っている。それが真実ならば、他が管理された物でも構いはしない。
 自分の自由意志がある。
 そして自分こそが、それを決めるのだ。
「お前、途中で止まったりするからネクラな考えが浮かぶんだよ」
「根暗とはなによ。訓練しなくて体鈍ってるあなたに言われたくないわ」
「お、じゃ競走するか?」
 そう言って元気よく周囲を走り出した彼が、やはり子供のように生き生きと活発で、アーデリカは笑った。

 ある朝の物語。