無題ドキュメント

 ──出掛けに言われたのは、何という言葉だったろう。
『いい子にしてろよ』
『すぐ帰ってくるからな』
 ……違う。
 ああ、思い出した。
『誰が来ても、鍵開けちゃだめだからな?』
 もう遅いです、フォウル様──

「さっきの粉チーズ取ってくれ」
「はぁい」
 遠い方を向いて彼らの存在を閉め出そうとする刹の前で、態とらしく作られた楽しそうな声と、こちらはなにも考えていない脳天気な声とがやりとりを交わした。
「イクスの方は、あと三十秒したら湯から揚げといて」
「任せろ」
 仕事が来たことが心底嬉しいようで、イクスは気合いたっぷりに言い切る。
 ああ、楽しそうだな。成程、そうだ、これは夢に違いない。
 どうしても追い出せない三人の会話を聴覚から追い出す努力は放棄し、無理矢理そう思い込んだ刹は乾いた笑いを頬に張り付かせた。
 だってそうじゃないか。フォウルの家の刹のお気に入りの台所で、イクスとリートとロアンが仲良く食事を作っているだなんて。
「刹、現実逃避したいのは分かるが問3が間違っている」
 眼鏡を押し上げながら、レイヴが問題集を突き返した。
「揚げるぞ!」
 宣言と共に、ざっぱりと高らかな水音が響いた。明らかに床にまで被害の出た音。
 ──誰が掃除すると思ってるんだ。


 そもそも事の起こりと言えば。
 玄関に取り付けた鈴の鳴った振動が響いて、刹は顔を上げた。
 あの鈴は、果たして小屋の中まで聞こえているのかと良く疑問を抱かれているようだし、刹自身も何故あんな微かな音が小屋の何処に居ても聞こえるのか不思議だが、フォウルによる魔法がかけられていて、それは確実に届くのだった。
「誰だろ……」
 自問して、刹は仕方なく腰を上げた。
 さきほど出ていったフォウルは内々の重要会議とかで、途中で癇癪を起こして帰ってきたりしない限りこんなに早くは帰れない筈だった。なにより、鈴を鳴らす必要がない。
 再び涼やかな音が響いた。
「はぁい」
 ぱたぱたと玄関まで出ていって、刹はひょこりと覗き窓から扉の前に立つ人を確認した。
 そういえば今日は学生は休暇だったけ、と最初に思い至ったのは、そこに立つ二人が珍しく私服だったため。
 刹と変わらないくらいの位置で揺れる黒髪。それに、先日まで“塔”研修に就いていたため会えなかった、細い線の印象から兄とはまるで雰囲気の違う金髪の青年。
「イヴ先生、リート!」
 唯一無二の存在であるフォウルが、未だしばらくは帰ってこないと言う寂しさもあったからだろう。更にこの二人とは別々に親好があるが、揃ってと言うことが珍しくもあり、刹は警戒を解いて扉を開けていた。
 と。
 外側から不自然な力がかかり、刹の意図に反して扉が大きく開け放たれた。つんのめりそうになるのを、脇から差し出された腕が慌てて支える。
「はい。作戦成功」
「……卑怯な」
 同じトーンの声が、一方は確信犯的なもので、一方は苦々しげに吐き出された。
 それにはっとして顔を上げると、同じ造形をした双子が向かい合っている。
「な、なんでロアンもいるんだよ!」
 支えてくれていた誰かの手を振り解いて柳眉を逆立てた刹に、同じタイミングで翠の瞳が向き直った。刹にとってはフォウルの次に頼りにしていると言っても過言ではない優秀な家庭教師と、フォウルの許可さえあれば直ちに決闘を申し込みたい──刹以外には返り討ちに遭うのが目に見えているのだが──天敵。
 もう一人。光の角度によっては青くも見える、深い緑の瞳の少年は、そんな双子と刹の間でぼんやりと事の成り行きを見守っている。
 ……?
 さっき、支えてくれた手は、確か。
 自分の足下に出来たもう一つ影に、目がいく。それからゆっくりと視線が上がっていき。
「すまん、俺もいるんだ」
 こちらは申し訳なさそうに、イクスが頭を掻いた。

「出来上がり〜」
 ほかりと湯気の立つ皿が置かれて、刹は目を見張った。
 勝手に押し掛けた四人は──正確には、会議に赴く途中のフォウルと出会ったレイヴが刹の面倒を頼まれ、それに休暇という事もあって時間のあったリートが付いてきた。珍しい二人が連れ立っているのを見たロアンが、手近な場所にいたイクスを引きずって追ってきたと言うことらしい──イクスが事務から物資を受け取った帰り道だったこともあり、持ち込んだ食材で昼食を作り出した。
 鮭のクリームスパゲッティと、刹の庭から許可なく採集したバジルのスパゲッティ。それに添え物としてタコのマリネ。
 ロアンに作れるのは酒のつまみ程度だろうと、まともな料理が出来ると期待していなかった刹は、食卓に漂った食欲を誘う匂いに唾を飲む。
「凄いですねぇ。おいしそうです」
 自分が手伝ったものの出来上がりに目を輝かせ、リートが「ねっ?」と刹の顔を覗き込む。
 天敵の手になるものを食べるのは、刹の子供らしい自尊心のラインに引っ掛かる事らしい。語る言葉を無くしたきり、テーブルの上を凝視している。
「食べ物を粗末にしない」
「はいっ」
 少し咎めるようなレイヴの調子に思わず大きく返事をして、刹ははたと固まった。
「刹、ちっちゃいんだから沢山食べろよ」
 衆目に食べ出すタイミングを掴めない少年へ、親切のつもりで声をかけたイクスは、次の瞬間殺気だった紫の視線を向けられて沈黙した。
「小さくない! いただきます!」
 喧嘩腰に言い放って、大皿からクリームスパゲッティを取り分けた刹は、強敵に挑むような顔付きでそれをぱくりと口に入れた。
 反応をうかがって見つめるイクス。
 何を考えているのか微笑んでいるリート。
 ごく無感動にフォークを口へ運ぶレイヴ。
 そして、マリネを突つきながらちらりと刹の様子を窺ったロアン。
 こんな面子で食べて味が分かるわけないじゃないか、と憤慨した刹の口の中で、それはクリーミーなソースに絡められた薫製風味の塩鮭と、丁度良く茹で上がったスパゲティの絶妙なハーモニーを醸し出した。
「……あ、

 こぼれ落ちた率直な感想に対して、ロアンの勝ち誇った笑みを頂いてしまった刹は、むすっとした表情で食事を終えると、一番先に立ち上がった。
「ロアンさん、お料理上手なんですね〜」
「実際の話、好きな子に自分が作ったもん美味しく食べてもらえるのって、いいだろ」
 おれだってそうだ。と闘志を燃やし、刹は食器を下げると冷蔵庫からヨーグルトゼリーを取り出す。
 昨晩のデザートに作った余りだが、自分としては甘さと言い形と言い、良くできている。ミカンの果肉入りと言う豪華さだ。
「イヴ先生。おれの作ったやつ、食べて!」
 外野の「いいな〜」と言う声は無視する。
 剣幕に負けて、レイヴがそれを受け取った。刹の真剣な眼差しを感じながら、困惑の表情でそれをすくう。
「……おいしいですか?」
 反応が薄いことに心配そうな表情になった刹に、肯定してみせる。
 途端、どうだと言わんばかりの勝ち誇った表情が雪のように白い面を覆い、ロアンの方を向いた。
(……子供)
 ロアンの唇がそう動かされたのに、レイヴだけが気が付いた。


 武骨だが割と作業が細かいイクスに洗い物を任せ、ロアンは再開された勉強会に向かった。今度は生徒にリートも加わって、分数の考え方を説明している弟の姿に苦笑する。
「なんだ。お前もイクスを手伝え」
「ん、後でな」
 レイヴの肩越しに問題集をのぞき込み、追い払われる。
「あとで……」
 意外にもリートが人の言質を取った。
 だがそれは、本当に後でやるんですか、と言う無邪気な問いかけに変換されるものではなかった。
「あとでって、未来のことですよね?」
 なにを当然のことを、と刹が目を白黒させた。時々リートは、こういう第三者には分かりにくい疑問を抱いてぶつけてくるが、その度に刹は相手に呑まれている気がする。
「まえにやったとか、言いますよね?」
「そうだな」
 何となくリートの言いたいことが分かった気がして、レイヴは眼鏡を外すと本を閉じた。
 この問題に、算数は役に立たないだろう。
「それって、過去のことですよね?」
 未だわけが分からない刹は、ただ頷きを返した。
「どうした。何の話だ?」
 洗い物が一通り終わったのだろう。イクスが台所から出てきた。
 自国から持ち込んだ丁寧な素材の服を着るイクスは、シャツにジーパンのロアンほど制服の時との印象が変わらない。
 ただ、はずし忘れた白いエプロンは、長身と相まって酷くミスマッチだった。
 それを指摘しながら、ロアンは大仰な動作を交えてリートの言いたいことを要約した。
「あ〜、つまり何で“過去”の話をするのに“先”って言って、“未来”の話をするのに“後”って言うのかってことさ」
 だってその言葉は、人が空間を指して使えば前方と後方を言うではないか。普通人は後ろに向かって進まない。前に向かって進む。とすれば、時間軸も進んで行った方向が未来なのだから、言葉として奇怪しくないか、と。
 もっとも、とも気にしすぎ、とも取れる質問を投げ掛けられ、四人は押し黙った。
「……そういう、ものなんじゃないか?」
 弱り果てて、刹がぼやいた。彼はどちらかと言えば教えるよりも聞く側だったし、難しい問題にはレイヴが解答を用意していてくれたから。
「どうして、そうなんでしょう」
 納得できないリートが繰り返し、刹はあ〜、と意味のない声を上げると再び口を噤んだ。
 数秒後、あ、と自らの思い付きに興奮したイクスが沈黙を破った。
「──ボートは後ろ向きに進むぞ」
「全生物がボートを漕ぐか?」
 間髪入れずに否定され、しおしおと座り込む。
 レイヴは真面目な顔のまま、先のことは分からないと言う言い方もあるな、と考え込んでいる。
 解けない問題を何時までも細かく考えているのは性に合わなくて、ロアンは話を打ち切らせようと声をかけた。彼は、こう見えて弟を凌ぐ才の持ち主であるから、解けない問題と言うの物には滅多にお目に掛かったことがなく、出来ないことに煩わされるのが嫌いだった。
「一つの解答例だから、答えじゃないかもしれないけどよ」
 と断って、ロアンは色違いの髪を掻き上げる。

「後ろって、背面だろ。後ろは見えないからじゃないか? 未来も普通は見えないものだしな」

 刹が、目を見開いた。
 周囲には布に隠されて見えない右目も、その言葉を受けて僅かに震える。
 ──未来は、見えないもの。
 そのフレーズが、頭の中を駆け巡る。
 それと同時に。ああ、そんな単純なことだったのか、と言う安堵にも似た奇妙な想いが沸き上がる。
 子供の頃に受けた迫害も。
 フォウルからの指示も。

 すべては未来が視える、この瞳のためだったのだ。

「刹さん?」
 押し黙ったまま、ロアンの発言に噛み付いていかない刹を心配して、リートが顔を覗き込む。
 何でもない。そう言おうとした刹の言葉は、リートの素っ頓狂な声で呑み込まされた。
「あ! ひょっとしてお昼寝の時間ですか?」
 そんな年じゃない。
 反論しようとして、しかし無邪気に笑っているリートの顔を見ているとなんだか本当に眠気がわき上がってくる。
 昼寝なんていつもはしない、と言いかけて口を開き。
「……ふわぁあ」
 とレイヴの胸に寄りかかって寝入ってしまった。
 思いがけない展開に、残された四人は刹の頭の上で顔を見回す。
「取り敢えず、寝室に連れて行く」
 仕方なさそうに、けれども優しく頬を緩めたレイヴが眠りこける刹を抱き上げた。どんなに細く見える彼でも、院で学ぶ身である以上、これしきのことは重労働と言えない。
 それだけに、代わるとも言い出せず──殊にリートやロアンが刹を運ぶというのも妙な光景であるし、三人はレイヴ、と刹を見送った。
 あの好悪の感をはっきり出す少年がころりと寝入ってしまったのだから、それは少しでも信頼されていると言うことかな、とイクスは誰も聞いていないフォローを入れた。
「……人体で試したのは初めてだけど、効果あるな……」
「ん?」
 何か言ったか。と不審そうに振り返ったイクスにひらひらと手を振り、ロアンは傍らのリートに向き直る。
「そろそろ帰ろうぜ」
「そうですね。刹さんが起きる頃には、フォウル様が帰ってらっしゃるでしょうし」
 ほんわりとした日溜まりの笑みを浮かべて、リートが頷いた。

 それにしても。と片付けをするイクスたちを後目に、ロアンは弟の出ていった戸に視線を移動させた。
 甘いもの食わせるわ、胸を借りて眠るわ、挙げ句の果てに笑顔付きの抱っこサービスとは。
「ことごとくオレに出来ない事をしやがって……やってくれるぜ」
 天敵だなと呟き、ロアンはこの家に入ってから少しだけ健康的に笑った。