SAKURA

 明かりの下に普段見かけられない人物の姿を見出して、正直レイヴは驚いた。
 図書館の一角、辞書や図鑑と言った、調べ物を専門にする書物が保管されたそこに彼がいるのは、ある種の違和感があったのだ。
 時折気紛れに起こすように、自分の邪魔をしにきたのかと一瞬勘ぐるが、しかし彼が何か分厚い本に顔を埋めているのを見ると、そうでもないようで。
「なぁ、サクラって見たことあるか?」
 何時から気付いていたのか、彼――ロアンが尋ねてきた。
「サクラ……バラ科の木だったか。いや、見た事はない」
「見たくねぇ?」
 何が面白いのか、くすくすと笑いを零す。
「サクランボウの生る木なんだってよ。そんで白かったり紅かったりする花が咲いてさ、リートのいた国では花王って言ってたんだと」
 こういう捕らえ所のない不毛な会話は、嫌いだった。
「それで、結局なんだ」
 ロアンが紡ぐ言葉の羅列を打ち切りたくて、真意を質す。すると、猫のように目を細める仕草で、彼は、らしくなく小さく微笑んだ。
「──見たいな、と思ったんだよ」
「それなら勝手にしろ。俺を巻き込むな」
 レポートを仕上げる資料を探していたのだが、そんな気は失せた。
 ただ兄の前に留まっていたくなくて、レイヴは殊更冷淡に返答を与えると、その場を去ろうと踵を返した。
 しかし、相手はその行動を見透かしていたように、軽く制服の裾を掴んでいて。少し後ろに引っ張られる感覚に眉を寄せ、レイヴは顔だけ振り向いた。
「この辺、咲いてねぇかな」
 悪びれた様子もないロアンに、苛立ちが胸を掠める。
「サクラの花は四季がはっきりしていないと咲かん。院では無理だ、諦めろ」
 “院”と言う通り名を与えられた漂白する世界の表面、ほぼ全面を覆う調節装置、ドーム。四季どころか、年間を通して気候の変動と言うものが殆ど感じられないのだ、この中では。刹那に咲く自然の花を見ることなど叶うまい。
 だと言うのに、ロアンは裾を握った手を離さず、中途半端に繋がったままの距離を保ったまま、ああ、と言葉を紡ぐ。
「じゃ、ドームの外なら咲いてるかもしれないな」
「……そこまでして見たいのか?」
 院の内部がドーム等という装置で区切られているのは、不用意に他世界の影響を受けないためだ。常に空間軸を移動している院は、一瞬の後に春から冬へ、十億年前へと、気候どころか次元すら変貌しかねない、不安定な空間でもあるのだ。
 それ程の危険を払ってまで見なければならない理由があるのかと、レイヴは訝しがる。
 探求心の強い彼にとって確かに未知のものは大変な興味対象だが、それとて図鑑で十分調べがつくような物ならば、敢えて危険を冒す必要も感じない。
「いいだろ、別に」
 拗ねたような声音に、年齢を考えろと罵倒してやりたくなって、代わりに嘆息する。
「わかった。サクラでも何でも見に行っていいから、手を放せ」
「わかってないじゃないか」
 レイヴの吐き出したものを掻き消そうとするように、これ見よがしな溜息をついて、ロアンはぱっと両腕を広げた。
「オレはお前と見たいんだよ」
 相変わらず馬鹿なことを。かっとそんな事を思い、今度こそ立ち去ろうとして。
 レイヴは周囲の空間が歪むのを見た。
「ロアン……」
 さすがに動揺は見せないものの、直ぐには言葉が出てこない。
 範囲内転移とはどれほどの力を要するのだろうか、だとか、そもそも院内での個人による空間転移は禁止されていなかったか、だとか。
 意味があるようでその実、現状から逃避しているだけの思考が繰り返される。
「──こんなに馬鹿だとは知らなかった」
 確かに院で学ぶ者たちには場所を越える力があるが、かのフォウルですら、他人を連れて転移するのは骨が折れると言う。それをやってのけたのは偉大と言えなくもないが、その理由がサクラを見たかったと言うだけとは。
 それだけの能力を、もっと有意義なことに向けられないものか。
 言いたいことは幾つか思い付くものの、結局レイヴはそれ以上述べることをしなかった。その代わりに、前方に広がる景色を眺める。
 院を囲んでいる筈のドームは、しかし決してその名が思い描かせるような金属やガラスの壁ではない。意識して「視」なければ気付かない程の、微妙な空間のズレで出来ている。それでいて、何の気もなしに通り抜けようとすれば、次元の狭間に落ちて一生を出口のない迷宮で彷徨うことに成りかねない。
 それ故、特別禁止されている訳でもないが、ここまで来る者はそういなかった。
「“境界”に居るって事は、やっぱ怖いか?」
 慣れた様子を見ると、ロアンは割とここまで足を運んでいるのだろうか。ふとレイヴは推測した。
 この賑やかな男が、この静かな場所に立って、一体何をしていると言うのか。
「イヴ、あれサクラの木だ」
 すっと指差されたそこに、確かに巨大な樹があった。幹はレイヴとロアンで取り囲んでも手が届ききらない可能性があるほど、立派だ。
 しかしその枝は、その身が経た月日を耐えかねたようにしなだれ、一輪の花もない。
 ロアンは少し肩を竦めた。
「咲いてないな」
「待て、見ろ!」
 外界の空気が一変する。季節が変わったのだ。
 小さな蕾が生まれたかと思うと、あっという間に薄紅が開く。舞い散る花弁が視界を覆い、二人の視線を浚った。
 手を伸ばせばそこに、感じられるのではないか。
 はらはらと落ちる紅に染まった花弁。
 レイヴは、空にまでサクラが咲いたようだと思う。
 満開のサクラが、数瞬とも、永遠とも思える時間を経て、見事に花を落とし、葉を茂らせるとそれもまた振り落とし、枯れたような姿で闇に溶け込んでいった。
「……奇麗だったな」
 小さく呟かれたその言葉で、レイヴは長い夢から覚まされたような気がした。