新任さんいらっしゃい

 サイファが教職を退いてから暫くの時が流れた。
 宝珠の使い手でもあり一院生と呼ぶには難しいサイファを、一体どのような任務に割り振れば良いのかと言う議題は常に話し合われ、結果、この頃では暇を持て余したサイファが友人でもある“白”フォウルの仕事を手伝っている姿が多く見られた。
 院の至宝たる宝珠の主を、院外には出せなかったのだ。
「お前が手伝ってくれると仕事がはかどっていいな〜」
 くすり、とモニタで顔の半分を隠したフォウルが冗談とも本気とも取れる調子で笑った。文字列の並ぶモニタの光に当てられ、その瞳にゆらゆらと記号が流されていく。
「公安になるか?」
 “白”の補佐官として院内の秩序に関する責任を負う役職を持ち出され、サイファは苦々しい思いで笑った。
 恐らくそれは、共通の想い。
 何であれ縛り付けられるのは御免だと言い切るフォウルと、生まれ変わりがあるならば世界を飛び越す風になりたいと願うサイファと。
 ここから出ることが叶わなかったあの人と。
 悪い冗談で紛らわすしかないその話に、二人は視線を交わした。
 決定が遅くなったが、公安にはフォウルが育てている刹少年が入ることがほぼ確定していた。その内正式な任命書が届き、彼の日常は大きく変わっていくことだろう。
 正直、未だ幼いという印象しかない刹に務まるものか、サイファも疑念に思わざるをえない。だがフォウルが求めているのは、有能な人間である以前に自分が本音の部分で安心できる相手なのだと言うことが判るから、好きにさせてやりたい。
 ふと、執務室に三番目の影が落ちた。芳醇な香りが立ち上るそちらに、視線が移動する。
 いつの間に現れたのか、ルクティが湯気の立つコーヒーをサイファの机に置いていく。猫舌な上にどちらかと言えばお子様舌のフォウルの所に置かれたのは、氷を浮かべたコーヒー牛乳であるらしかった。
 無駄のない動きで一礼。銀糸の髪が軽く揺れた。
 そのまま物も言わずに立ち去っていく。
 無口が服を着ているような振る舞いに、主たるフォウルや付き合いの短くないサイファは馴れた様子だが、果たして他の教師や学生たちとは巧くコミュニケーションが取れているのだろうか。
 不安を覚えなくもない。
 日常で見る彼の態度は、無駄口どころか必要最低限の程度を下回る言葉しか発しない上に、あまり覇気がないという特徴まで付加されている。
 生真面目なカイなどとは少なからず衝突していることだろう。
 そこまで思考を巡らせたところで、ふいにサイファの空を抜き取った瞳が宙を泳いだ。
 一つ、書類を机に投げ捨てると置いていかれたコーヒーに口をつける。
 豆の持つ酸味と糖分のバランスが完璧といえる案配で取れていて、その複雑で繊細な味わいが咥内に広がっていく。
 フォウルの下では常にこの最上級のコーヒーが煎れられている。
「……何時もルクティ教師が?」
「あ? いるぞ。時々うちにも寄ってってオレの残した仕事とかしてくし」
 あとこれからは刹に公安任せるから、その引き継ぎとかさ。
 行儀悪く肘を机の上に乗せ、グラスから氷の欠片を掬い取って口の中に放り込む。濡れた指先をぱくりと唇がくわえ込んだ。
 ──彼もあの青年も、教師の仕事をなんだと思っているのだろう。
「思うにフォウル──」

 突然フォウルから「教師業が身に付くまでの出入り厳禁」を言い渡され、ルクティは当て所なく彷徨っていた。
 こういう時は教師棟にでも行けばよいのだが、未だ何となく周囲や自分の新しい任務に溶け込めない彼としては寄り付きたい場所でないし、何より選択肢として脳裏に浮かぶほど馴染みのある場所でもない。
 やはりフォウル宅に赴いて禁令を解いて貰えるよう頼むべきか。
 そう思ったルクティは森へ向かおうとして。
「ルクティ教師?」
 聞いた覚えのある、少し掠れた声が呼び止めた。
 顔を見て、はて誰だったかと惚けたことを思い巡らせたのは一瞬。担当を受け持っている教室に所属する学生の一人──レイヴ・マダード。
 その物静かな真面目さは、どちらかと言えばルクティにとって接しやすいものだった。何よりその兄と違って、彼は此といった問題を起こさない。
 その手に提げたバインダーと、小さな草が目を惹く。
「……あぁ、院内に群生する植物を調査していたので」
 少しは敬意を払われているのだろうか、丁寧な説明を受ける。
 授業外にはそんな自分の知的好奇心を満たす行動をしているのか、と知ってルクティは相槌を打つ調子で軽く頷いた。
 それより、とレイヴが言葉を繋ぐ。
「教室長が探していましたが」
 思い掛けない事を告げられ、ルクティが薄い氷色の目を瞬かせる。
 では森へ行ってしまう訳にもいかないか、と動きを止めた教師に、レイヴもそれ以上言うことはなかったのか沈黙を返す。
 不毛に見つめ合う時間が過ぎること三秒。非生産的なその行為に耐えられず、レイヴは「では」と目上の者への礼儀だけは通して何処かへ向かおうと踵を返す。が。ふとその緑の視線が自分の手元に落ちた。
 一瞬考え込んだ後に、その草を掴んだ手が差し出される。
「良かったら、どうぞ」
 白銀の睫毛に縁取られた瞳が、聞き返すように見開かれる。教室内でも観察眼が鋭い双子だけは、こうしたルクティの表情の変化に気付くことが多い。
 それをロアンならば「話せば他の者にも判るのに」と評するところだが、割と自分も言葉が足りないと自覚しているレイヴは、さして気にしない。寧ろ接する相手が言外の想いまで汲み取ってやるのが良いだろうと思う。
「シロツメクサ。別称クローバー。本来三つ葉のものですが、こんな風に四つ葉のものもまれに」
 言われて、ルクティも差し出されたそれに目をやった。
 小さな緑の四枚葉に、白い線が入ったクローバー。
「培養すれば再生できないかと」
 だから摘んだのだけれど、と言葉を句切るレイヴ。
「……やめたんですか?」
「クローバーの四枚目の葉は、幸運のシンボル。偶然生まれたそれを偶然見付けた者だけが授かる幸せ。それもいいかと」
 他愛ない伝承を残しておきたい、自分の意識に邪魔された。
「いいですね」
 有難くいただきますと口の中で断って、ルクティはその葉を受け取った。

 レイヴと別れてから暫く行くと、庭園の一本の樹木の前で精一杯背伸びをしている後ろ姿が眼に飛び込んできた。
 確かあの少年は、と声を掛けるべきか否か躊躇ったルクティが見ている前で。
「えいっ!」
 気合いを込めたジャンプ、の後結局何がしたかったのか分からないまま着地失敗。地面に腰が落ちる。
「う〜ん……もっと勢いを付けてからジャンプしないと届かないんでしょうか」
 どうやら少年が目指しているのは、あの、明らかに人間離れした脚力をもってしなければ届かない高所にある枝であるらしい。
 恐らくそんな真似が出来るのは主たるフォウルだけだろうと、思う。
 仕方なくひょこりと少年を覗き込むと、彼のその年代にしては小さな掌には、未だ目も開いていないこれまた小さな生命が一羽。
「あ、ルク先生!」
 ぱっと笑顔を見せたのは、ある意味ルクティと同様新入生のリート。
 教室を預かるルクティとしてみれば、少しボケた行動は困りものだと思っているのだが、実は自分が他の教師等からそう思われているとは夢にも思わない。
 ましてやあのロアンに「ある意味似た者なんじゃないの」と揃えて評されているとは。
「鳥さん、落ちちゃってたんです。あの辺りに巣があるみたいなんですけど」
 僕、小さくって。
 明らかに身長の問題ではないのだが、そうリートは言って、手にしたそれをルクティの両手に押し込める。きっと何とかしてくれるだろうと言う半期待感に満ちた瞳に見つめられ、ルクティはたじろいだ。
 手の中の小鳥は、ルクティにとって小さすぎて、なんだかふわふわと頼りない。握り締めれば潰れてしまいそうなそれを、どう扱っていいものか。
「巣に、戻すんですか?」
「はい!」
 にこにこと頷かれて、ルクティはいつもの通りの無愛想な無表情で一言、呪を唱えた。
 ふわり、と空に持ち上がる身体。
「うわぁ……」
 元々大きい瞳を更に丸く見開いて、リートがきらきらとした笑顔で見上げる。ルクティはあっという間に天に伸ばされた枝まで辿り着くと、そこに作られた巣に掌の小さなものを返してやった。
 兄弟たちが、ちちちと一斉に鳴き出す。
 ほんの数秒で地表へ戻ってきたルクティに、リートが眩しいほどの表情で声をかけた。
「凄いジャンプですね!」
 何か間違っているような気がしながら、ルクティは曖昧に頷いた。

 それほどの跳躍力を付けるにはどうしたら良いかと真面目に問われ、思わず真面目に足腰を鍛えたらどうかと助言してしまったルクティは、リートと別れてから正門をくぐり、中央校舎を前に臨んだ。
 問題は自分を捜しているらしい教室長イクスが、今どの辺りにいるかなのだが。
 探索したい相手を思い描き、白銀の髪がかかる額の辺りに念を集中させると、ある一点から反応を感じる。教員棟の方だ。
「そのうち本気で怒るぞ!」
 ふいに近くで発せられた大声に気を惹かれた。
 意識をそちらに向ければ、赤茶の髪の少女が肩を怒らせルクティの前を通過していくところだった。感心するほど速い足で、彼女は直ぐに行ってしまう。確か、キハラス・ベーギュウム教師の教え子だった。
 その後を追うように校舎の陰から出てきたのは、先刻会った青年と同じ顔に、まったく別の人格を宿した兄。
「あれ、ルクせんせ。珍しいね」
 敬愛する主がするのと同じように名前を縮められ、ルクティは分からないほど仄かに眉を寄せた。その動きに連動して、どちらかと言うと柔らかい印象を与える目尻が上がる。
 大体、この学生は自分とウマが合いそうにないのだ。
 自己中心的な自信家で──フォウルのそれは唯我独尊と言うのだ──迷惑ばかり引き起こしてくれる問題児で──フォウルのあれは、日常代わり映えのない自分に滅多にない体験をさせてくれる心配りと言うものだ──ルクティには理解の出来ない放蕩者だ──これはちっともフォウルに当てはまらない部分なので安心できる。
 幸福を祈るクローバーを渡してくれて不器用な笑みを浮かべた弟と、本当に同じ環境で育ったのだろうか。
「食べる? クッキー」
 誰かの手作りらしい、可愛いラッピングの袋を持ち上げて見せる。言葉少なに断ると、何が楽しいのか笑われた。
「残念ながら毒は入ってないぜ。サラからの差入れなんで」
 そんなことは考えていない。
「本当にいい子なんだ。料理は旨いし純情可憐だし真面目だし」
 嫌味な内容だが明るく語られるので、ルクティは余り嫌な印象を受けなかった。しかしエファ=ミレオの存在を知っていれば、受け流してはいられなかったかもしれない。
 生憎と人間関係の機微に疎い上浮ついた話に興味がないルクティは、自分の受け持ち学生の公認彼女を知らなかった。
「そんなオレの幸せを、先生にも是非分けてあげたい! ……な〜んて思ったんだけど」
 さり気なく失礼な発言を零し、本人が笑う。直ぐ続けられた言葉に、ルクティは驚かされた。
「でも要らぬ世話だったな。せんせ、今密かにシアワセだろ」
 良かったなと、どちらが年長か分からない台詞を残してロアンは立ち去る。何処か苦みを帯びた、しかし嬉しそうな笑みが宙に残された。

 そんな風に見えたのだろうか、と感じつつようやく教員棟の自室前まで辿り着いたルクティは、そこに長身を折り畳み、ロアンが持っていた菓子袋と同じものを一つを摘みながらも真剣に書類を見つめている教室長を見付けた。
 その真剣な表情に、もともと言葉を乗せるのが苦手なルクティは音を飲み込む。
「………?」
 沈黙を守る人に視線を上げ、イクスがはっと立ち上がった。が、その途端に窓枠にはみ出す格好で置かれていた置物に後頭部をぶつけ蹲る。
 そう言えば、とルクティは思いを馳せる。あの右手を挙げた猫の置物は、確か刹がお土産で持って来てくれた福を呼び込むと言う縁起物だった。眼下で痛みにのたうち回る教え子に何の注意も払わずに思いに耽る姿は、やはり何処かリートに共通するものを感じなくもない。
「う〜…ルクティ教師……」
 余程痛かったのか、涙眼になるのを堪えているのが明らかな様子でイクスは立ち上がり直した。常は空を向いていた前髪が、少し勢いを失ってひしゃげている──いや、恐らくそれは関係ないのだろうが。
「来週期チャプターで塔に入るレイヴの講義欠席理由書と受理証をお持ちしました」
「なんですか、それ」
 その台詞は、思いのほかイクスを挫いたらしい。
 彫像のように固まってしまった教室長の手からそれを取り上げ、ざっと目を通す。
 院生向けに作られた“塔”では、フォウルですら把握しきれない数の様々な設備が整っており、そこでは主に“文”系の短期集中研修が執り行われる。そのくらいは知っていた。
 書類の語るところによると、レイヴが受講している講義で数日間泊まり込みの研究を行うらしい。その期間に行われるルクティ担当講義への欠席を認める手続きであるらしい。
「……どうして教室長が?」
 本人ではないのか、と問う。
「寮の外泊責任届けだとかは教室長から事務手続きをするので、ついでに」
 事も無げに言うが、殆どこの教員棟に戻ってこないルクティを待つのは楽しい仕事ではない。勿論こうした届け出は本人から教師へ直接届けるのが普通だが、ルクティ教師の分に関しては、教室長であるイクスが殆どの分を自主的に捌いているのである。
 そうしなければルクティ教室では伝達事項が遅れ、運営が止まってしまうと言う必要性にも迫られて、だが。
 なんとなくそうだろうとは知っていたが、手を回していなかったのも自分なので小さく謝罪すると、イクスは一瞬驚いた様子で、それから笑った。
「俺、教室長ですよ。一緒に頑張るのは当然です」

 ほんの少しばかりの時期をおいて、ルクティに出されていた出入り禁止の令は解かれた。刹に引き継がねばならない諸事務があったのは事実であるし、劇的な効果を見込んでなされたわけでもない。
 だが、確実にフォウルのもとへ入り浸る時間が減ったと聞かされ、サイファは控えめな驚きを返した。
「──心境の変化でも?」
 問われて、ルクティは少し躊躇った。
 自分でもよくは分からない。分かっているのは、今まで全ての時間をフォウルに割いていたのが、少しは受け持ち教室の方にも回るようになったことだけ。
「……刹と一緒だったんです」
「ああ、食わず嫌いか」
 先日イクスが差し入れるまで、少年から大っ嫌いだと公言されていたトマトの一件を思い出して、その平穏な情景に微笑む。
 この青年は決して愚かでないから、学生たちと接していて分かったはずだ。
 確かに教師は教える立場にあるものだが、しかし教えるばかりでなく彼らから教わる部分こそむしろ多いと言うこと。そしてそれこそ重要なのだと言うこと。
「イクスも……レイヴとロアンも、リートも……皆いい子かもしれないと」
 向かい合い始めなければ、何も進まない。分かった気になっているだけだったと。
 和やかな会見は終了した。サイファから借りた次の講義の資料を持っていくルクティの姿を見送り、しかしふとサイファは自問する。
 イクスと……レイヴとロアンと、リート……?