その名を呼ぶ大いなる力は闇の彼方
「──さん!」
こちらの胸が痛くなるような声で誰かが叫んでいる。
フォウルは立ち止まると次元を見渡す視線を泳がせた。
一瞬視界が滲み、直ぐにレンズのピントを合わせるように一点へと集中していく。きゅっと瞳孔が丸く広がる感覚がして少し瞼を閉じ、それから改めて開く。
何かを感じる暇もなく、そのままフォウルは視界を占拠した異界の光景を見つめた。
それは、一つの別れの光景だった。
眼に付いたのは、先ず空間の捻れだった。次元の裂け目を無数にまとった黒い渦が、制御を離れでもしたのか轟々と異質な音を響かせて消滅していく。役立ち過ぎる耳には、空間を御す術を持つゆえ感知する不快な音と、その場にて放たれた高低を異にする悲鳴とが不協和音を奏でて聞こえる。
それで、人に気が付いた。
次元を隔てて覗き込んだフォウルの側からは丁度正面を向いている、四人の男。叫びをあげた表情のまま押し倒されている少年と、その肩を掴んでいる大男と、前へと身を乗り出している背の高い少年。そのもう少し奥手に長身の男。
その全員から隠しようのない、否、隠そうともしていない焦りと、悲哀と、絶望の眼差しを向けられ、フォウルは意味もなく狼狽えた。が、少年が伸ばしてきた手の行方に目線を近付けることで、その感情は直ぐに塗り替えられた。
──力場に捕らえられた少女が、一人取り残されている。
黒い渦、としか表現出来ないこの『扉』は、もともと完全でもなかった物が更に混乱を来した様子で、何処の次元へ繋がっているのかフォウルの力をもってしても一言では言えない。いや、何処かへ繋がっているならば良いが、これだけ裂け目が混在すると、五体が細切れに別の空間へ飛ばされ、一瞬にして少女の長くはなかろう生を終わらせる事になりかねない。
先程聞こえた声は、彼女の名を呼んでいたのだ。彼女を救わねばならないと言う純真にして力ある声が、フォウルの下に届いたのだ。
しかし自分が手を出して良いものか、フォウルは己の意志を一旦押し止めると世界の意思を探った。
その間に少年は手を伸ばし切ったが届くことなく、黒い渦は少女を抱き込んだまま掻き消えて、そのまま──
助けを求めて伸ばされた手を、知っている。
そして、絶望に歪められたあの表情を見てしまったから。
手を伸ばさずにいられなかったそれを他人は偽善と呼ぶだろうか。
或いは儚き感傷と。
そして。
大事をとり、一旦癒しの術に長けたホリィに預け置かれた少女が意識を取り戻したとの報は予想よりも早くもたらされた。
但し、過去を黒い渦に奪われて。
見舞いに訪れたフォウルが少女を助けたのだと、傍らのホリィが簡単に説明してやった拍子に浮かべた、恐怖から逃れようと縋り付くような顔が胸を突く。
少女の処遇でもって、議場は揺れていると言うのに。
次元の狭間に消え去るところを拾ってきた程度で、救えたと言えるのだろうか。
「あたし」
少女は曖昧に言葉を切ると、そこで表情を強張らせた。
華奢な肩に不自然な力が入り、極度の緊張からくる錯乱状態に陥っているのだと知れた。
「あたし、何も。あたし……」
巧く言葉が紡げない様子で、また独り言にも似た調子で繰り返す。
その瞳が不安げに揺れるのを見たくなくて、フォウルは猫目石の瞳を細めると表情を緩めた。一目見ただけでほっとするような良い笑顔を。
そして、少女の名を。
「シャリア」
その名を呼んでいるであろう声は、まだ遠い彼方。
闇を開くことは出来るだろうか?
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