夢の終焉

 空気が震えた。
 震動が徐々に全身を揺らがし、ロアンは神々の裁きを受けたかの如き衝撃を感じた。唾を呑み込む音が身体の内で大きく響く。

 いつかは新時代の風が吹く。
 けれどもその時を誰も知らなかった。
 いつか、と言うその時を知る者はいなかったのだ。

「聞いたかしら」
 続いて薄紅色の唇から紡がれた名前に眉を顰めた。
 魔術だとか──そう言った不思議の術を使う学生には、各人の形態に合わせて訓練がもたれる。名が出された少年は、その術を扱う試験の際に不思議の力を暴発させたらしい。
 その有り様が、ただ力を制御しきれなかった為ならば減点されるだけの話だ。
 だが少年の場合は、彼が本来持ち得ていなかった力を、その瞬間に生み出した。
 彼の奇跡を扱う術の場合、訓練によってすら力が増大することはないと言う。それが突発的に強まった理由として考えられるのは大まかに二点。
 一つ──何らかの補助道具を得た為。
 二つ──外部から何らかの力を得た為。
「先ず一番目は有り得ないわ。持ち物検査があるものね」
 何の道具も見当たらなかった。ここ数日で何らかの道具を得たという事実もない。
「二番目も有り得ないな。試験は結界の中だろ?」
 勿論結界を通り抜け、それを教師たちに悟らせないほどの術士が力を運んだと言うのでなければ。だが故意でも無意識でも、力は強力であればあるほど隠しにくくなる。少年が発動させたと言う威力に、それは難しい。
 ふと、黒眼の奥が艶やかに微笑んだ。
「教師陣は今も会合中よ。でも解ったことがあるの」
「院中に盗聴器でも仕掛けてるのか?」
 そんな訳はないだろうけど。
 年上の恋人の情報網だけは侮れなくて、次の言葉を促した。
「まぁね……結界内に偶々フォウル様がいらしたのよ」
 その名を聞きたかった。

「ほんに不思議どすなぁ」
「なにがや?」
 なかなか聞き慣れない言葉遣いの会話が聞こえて、ロアンはそちらに目をやった。思った通りスィフィルと月と、先程話していた少年とが机を同じくしている。
 それと、お得意の先生役なのかレイヴと天麗がいる。
 聞き返されて月は一旦恐縮したようだったが、四者から見つめられて怖ず怖ずと口を開いた。
「かて、どなたはんか分からへんですけどこの試験の結果によっては院から出ていかされるんどすやろ?」
 そんなの嫌どす。
 言われて、目下最下位争いを繰り広げているスィフィルとリートは顔を見合わせた。片方は焦りの表情で、片方は果たして状況をわかっているのか怪しい表情で。
 初級生内の最低成績保持者は放校処分、だ。
 院を去る可能性が一番高いのはこの二人。
「かんにんやす……」
 唸り声を上げながらテキストに向かい直したスィフィルに、丁寧なお辞儀が一つ。
 くすり、とその光景を笑ってロアンはその席に歩を進めた。
「あ。ロアンさん」
 邪気のない顔を向けられ、滅多にない事だったが言葉が詰まった。
「何しに来たんや」
「スィフィル、先輩に失礼じゃないか?」
 雰囲気を解さない後輩のお陰で取り繕わずにすんだ。気のない声を上げながら机の上を覗き込んで、ふと言ってみる。
「な、教えてやろうか」
 瞬間、レイヴとスィフィルがそれぞれ手にしていた本と筆を取り落とした。待っていても声が出てこない辺り、余程驚いたらしい。
 もっともそれ程ロアンと交流がない──精々エファとの噂を聞かされたり、お茶に誘われたことがあるくらいだ──天麗たちは、むしろ二人の反応の方に驚いたようだった。
「ど、どういう魂胆やねん!」
 さては嘘八百教えてボクを落とす気やな、と散々ロアンには虐められたと思っているスィフィルが吐き捨てる。
 ……本気で挽回しなければ、院を離れるのは彼だ。
「ちゃんと教えてやるって。オレこの科目は成績良いし。ね、天麗」
 突然話題を振られて、彼女はびくりと身を竦めた。
「え、ええ」
「そうだが」
 同じ声が、落ち着いた風情で割って入る。
 同じ瞳が、真摯に兄を見据えた。
「お前の捉え方は大雑把すぎて、教えるのに向いていない」

 そう言えば昔一度だけ、レイヴに教えようとしたことがあった。
 何でも理詰めで理解しようとするレイヴに、ロアンは「これはこういう物なんだから、そう捉えればいいんじゃないか」と言った──事が確かにある。
 でもな。
 世界はお前たちが望んでいるほど、理論だっては存在していない筈だ。

 さよなら、だな。
 心の中で一足早くスィフィルに別れの言葉を呟き、その場からロアンは身体を離した。
 勿論女性陣へおいとまの言葉は欠かさない。
 だが流石にレイヴには、その唇の端を持ち上げた独特の笑みが今日はどこか壊れている事に気付かれそうで、直ぐに踵を返した。
 今日一日だけで、きっと明日にはいつものロアン・マダードを取り戻すから。
 何処を通ってきたのか定かでもない庭園の前で、その場にそぐわない顔をしている教師を見つけたものだから、ロアンは自分は涙を流すのではないかと思うくらい顔を微笑ませた。
 そして不審そうに潜められた白銀の優美な眉に、おめでとうと言ってやった。

 新時代の風が吹く。
 その風は思っていた以上に強すぎて、息が詰まる。

 怠惰な夢を貪る日々は、今終焉の鐘を鳴らしたのだと言う。
 しかしまだその音は、ロアンと名乗る彼にしか聞こえてないらしい。