ちからあるもの

 いつの間にか辺りが薄闇に包まれていたのに気付いて、ホリィは本を机の上に置くと紅茶を淹れようと思い立った。
 それを見越していたようなタイミングで救護室の扉が開いた。黒髪を高い位置で結った男が、ホリィの姿を見止めて眼を細める。
「劉。どうしたんですか?」
 珍しいですね、と中へ誘うホリィを制し、劉は勝手に薬草棚の置かれた部屋に向かう。ラベルを貼った木箱や瓶が整然と並ぶそこから、目当ての物を探している。
 ホリィはそれを見やって、二人分の紅茶を淹れるために湯を用意した。
 やがて部屋に立ち昇った香りに、薬草を取り出してきた劉は立ち止まる。
「少しは時間もあるんでしょう? ちゃんと私に仕事をさせて下さいね」
 あなたの分の紅茶も淹れてしまったことだし、と。物を粗末にするのが嫌いな劉に適した引き留め方だから、彼は嘆息しつつ従う。
 大人しく腰掛けた同僚の利き腕には、痕の残りそうな裂傷が走っていた。無論ホリィは、彼が扉を利き腕と逆の手で開けていた時点でそれに気付いている。
 それに彼自身が選んできた薬草を塗り込めてやりながら、ホリィはそっと劉を窺う。痛みを感じない筈はないのだが、彼は相変わらず表情の読めない貌で、出された紅茶に口をつけていた。
 せめて痕が残らないように術を施したいところだが、それは出来ない話だ。仮に可能だったとしても、女子供ではあるまいし、温存しておけと劉は言うだろうが。
 誰もが治癒の術を使えるわけではないのと同様、院で暮らす者たちの中には、治癒の術を受けられない者が存在する。いわゆる魔法、と一括りにされる技を存在してはならないとする世界の出身者たちだ。
 かつて、一度だけホリィはそれに気付かず運び込まれた患者に癒しの術を掛けたことがある。結果、それは受け付けられない異物を流し込まれて相手を苦しめただけだった。
 劉もまた、それほどの拒絶反応が出るわけでないが術を受けられない一人である。もっとも彼は怪我や病気とは縁遠い。以前今までの人生で一番痛かったこと、をフォウルが皆から聞き出していた時にも、真剣に「足の小指をタンスの角でぶつけたこと」と言っていた程であるし──
「どうしたんです、なんて貴方には聞きませんから。ただし傷口には気を付けて下さいね」
 包帯まで巻いた腕に少し大袈裟だと言い出されそうで、ホリィはしっかりと釘を打った。
「聞いても構わないが」
 武の教師が一太刀浴びたと言っても、そんなに問題があるわけではない。しかしホリィはそれを否定した。
「それなら傷を放置したり、独りで治療しようとしないでしょう」
「俺のミスだったからだ」
 カイに次いで若い劉は、お見通し、と言わんばかりの口調に思わず少し反発する。彼らよりも年季の入った──しかも医務の仕事に就いて長いホリィは、笑ってやり過ごしてしまえるけれど。
「そう言えば、劉は武器を使わないんですね」
 無論武部門にいる以上、どんな武器に対しても一通り習得している筈だが、劉が武器を持っている姿はあまり見受けられない。素手での戦いに拘っているように見える。
 その指摘に、劉は眉間を寄せた。
「……武器はやりすぎる」
 自分が本来持っている力を遙かに越える力を、簡単に得ることが出来てしまう。
 振るった力の反動と言うのは必ず自分に跳ね返ってくるものだ、と劉は感じている。だから武器が恐ろしい。自分の力も読めないままに、強大なそれを使えてしまうから。
 自覚もなく、人を傷付けられる。
 それが自分に返ってきた時、果たして受け止められるだろうか。自信がない。
 だから院では、たとえ他の世界に強力な武器があることを知っていても、学生や院生たちに自分の世界に合った武器を選ばせる。
 人を傷付けてしまう道具だからこそ、自分の責任が持てる範囲でしか持っていてはいけないのだ。
 かつて、未だ子供と言える年齢だった頃、劉は銃を扱ったことがある。
 銃身に込められた一発の弾丸、ほんの少し力を入れただけで引かれる引き金が、大人たちと革命に粋がっているだけの子供の差を消しさった。
 その時判ったのだ。
 力は、恐怖だと。
「ホリィ教師こそ、何故武器を持たない」
 反面、弱い者こそ身を守るために武器を所持するものだ。
 劉個人は武器が嫌いだが、学生たちがその身を安全に出来るならば、とも思う。だから劉からすれば──そう言えば怒られるかもしれないが、か弱い女性であるホリィが、護身の術を持たないのは不安である。
 院でも、危険がありえないとは言えないのだから。
「そうですね」
 呟いて首を傾げた彼女は、思わず目を奪われるくらいとても綺麗に笑った。
「リカルドが守ってくれるから、かもしれませんね」
 危ない時は助けて下さるそうですから。と信頼した様子で、幼馴染みであるらしい教師を挙げたホリィは、意外と強いのかもしれない。
 一人の人を信じられると言う点に関して。
 救護室の扉の向こうで入るのを逡巡していた誰かがくしゃみをしたので、劉とホリィは顔を見合わせて笑った。