微笑みをともに。
それは多くの新入生たちが“院”の生活にも慣れた頃。
イグゼフォム・カルバニルは教室の後輩リートを連れて、院内を歩いていた。
と言うのも、未だにこの少年は院内で道に迷ってしまうことが少なからずある為だった。
以前に同室の一年生スィフィル等がリートを連れ回した事もあったのだが、自信があったはずの彼らも、どういう訳かリートと一緒に迷ってしまい、そこで教室長の登場となったのだった。
「問題点はさ」
と、イクス達と対策を練る折りにロアンは語った。
「リートが地図を読めないってことだ」
だから、歩き回ることで次第に土地勘を得ていくしかない。それを踏まえ、歩くことから始めたイクスの判断は正しいと言えよう。
しかし真に最大の問題は、リートの持つ「なんだか分からないけれど周囲を巻き込んでしまう」力にあったのだ。
寮を出て、東校舎の教室へ行くパターンを何通りか。
だいぶ呑み込んだ様子に一安心し、それでは、とイクスはリートに先を歩かせて見ることにした。
それが間違いの元とも知らずに。
ここは何処だ。
思わず遠い目を明後日の方向に向けるほど、イクスは途方にくれていた。
いつの間にか、道は生い茂る木々に狭められその姿を消している。“院”でこれほど鬱蒼とした場所と言えば、かの「迷いの森」しかない。
勿論、イクスはこの森を通ったことがある。だが今のように現在地もわからずに闇雲に歩いて通ったわけでない。運が悪ければ永遠に彷徨うことになると言う禁断の地で、人一倍運が悪い自覚のある彼は、悲愴な色の濃い溜息をついた。
一方のリートに至っては森を通ったことはおろか、その構造すら理解していない。それゆえの楽天さで、少年は物珍しそうに辺りを見回している。
あまり距離を置くと存在する次元が変わる危険性から、イクスはその小さな手を取り、立ち並ぶ木立に注意しながら慎重に歩を進めた。
「……イクスさん、僕、お腹空きました」
ふと呟かれた言葉に、彼は自分もまた空腹を抱えていることに気が付く。
「そうだな……。お昼の時間だ」
善良な騎士であるイクスは、こんな状況に陥った原因をただリートだけの責にすることも出来なかった。
仕方なく、彼は少年の言に相づちを打った。
それ以外何が出来ただろう。
きゅ〜くくる〜。
未来の院生を目指す若者たちにしては情けない腹の虫が鳴り、イクスはついに奥の手の使用を決意した。
今迄使おうと思わなかったのは、その絶大な効果ゆえの代償を怖れていた為だ。
しかしこのまま飢え死にする事は避けたい──いや、己一人ならばそれも耐えようが、道にも不慣れな少年を巻き添えにしたとあっては、騎士の面子に関わる。
「……リート、念の為に耳を塞いでいてくれ」
せめて奥の手の反動が少年にまで飛び火しないよう、耳を塞がせる。
リートは不思議そうな顔はしたものの、大人しく両耳を塞ぎ、ついでに両目をばっちりと閉ざした。
よくよく観察するとその唇もへの字に堅く結ばれている。
俗に言う「見ざる言わざる聞かざる」と言う状態である。
それから、イクスは呼吸を落ち着かせると小さく、しかし鋭く“力ある言葉”を口にした。
「フォウル様の、あほ」
森の中には木の葉と土の香りが満ちていた。小動物が静かに動く気配しか感じられず、二人が立てる微かな息遣いがうるさいほどだ。
イクスは思わずきつく閉じていた目を片方そっとこじ開け、辺りを伺う。
何通りかシミュレートして予測した衝撃はなかった。
失敗したのか。
イクスはもう一度口を開いた。
「フォウル様のショタコ──」
「オレ様スペシャルキーックっ !!」
ぐわり、と頭蓋骨がたわんで脳がひっくり返ったような衝撃があった。
あまりの痛さに涙目になりながら確認すると、超高速で飛んできたその物体は鉄製のフライパンだった。
何処が“キック”なのだろう。
「二度もオレの悪口を言うとは、いい度胸してるなイクスぅ〜」
楽しげな口調と裏腹に背筋が凍る凄味を発しながら、“奥の手”フォウル:オナー・ホワイトは地面に転がったフライパンを回収し、イクスの喉元に突き付ける。
覚悟の上だったとは言え、生命の危機に当然青くなったイクスを、誰が責められよう。
「どうせロアンの奴の入れ知恵だろうが、言ったら共犯だ。共犯。お前悪いこと嫌いなんじゃなかったのかぁ?」
「う……うぅ」
痛いところを突かれる。
「そもそも『バカって言った方がバカ』っつー先人の名言から推測すると、オレのことアホって言ったお前の方がもっとアホな。そんで二回目の奴はなんだよ。こら、言ってみろよ」
いや、そもそも口の回る方ではないイクスが、ロアンと弁舌対戦をするようなフォウルに適う筈もなかった。
「──ま、それはともかく、お前ら何やってんの?」
その舌が止まった時には、イクスは自己嫌悪と後悔と懺悔と遺書の文面で、既に一杯になっていた。
ちなみに、リートはまだ耳を塞いでいた。
結局フォウルは、イクスたちが道に迷った上の空腹だった事を顧みて、小賢しい技の使用料を不問に処した。どこか感慨深かった様子を見ると、ひょっとして彼もそんな経験があるのだろうか。
我が家に招き入れ、昼食を食べさせてやると豪語した。
イクスの感動は絶頂だった。
例え代わりに掃除と洗濯と食器洗いを押し付けられたとは言え、それすらフォウルへ芽生えた敬愛の念が30%薄れた程度だった。
「リートはうち来るの初めてか。……じゃ、刹とも会ってなかった?」
ふと問われて、リートは助けを求めるようにイクスの顔を見上げた。
「そうですね。紹介した覚えはありませんが」
「なんで?」
間髪入れずに聞き返され、イクスはのどを詰まらせた。
「なんで紹介しないんだよ。歳の近い友達を作ることが子供にとってどんなに良いか、お前理解してないんだろ。あ〜あ、可哀想な刹」
手で目頭を押さえ、感慨深そうに佇む。
一方的に悪者にされたイクスは、しかしその姿に、リートたち新入生が院の生活に慣れることを重視していて、もう一人の身近な少年に与える影響を失念していたことを酷く恥じた。
「フォウル様! 申し訳ありませんでした」
がばりと平身するイクスをちらりと盗み見るフォウル。
「──反省してる?」
「はい」
ちらり、とリートの方に視線を動かすと、少年はお腹空いたな、という顔で事の成り行きを見守っている。
「じゃぁ、お詫びにオレの布団干す?」
「はい!」
「なら許してやる」
大らかな裁量に感激して謝辞を言うイクスに、分かっているのかいないのか、リートが「良かったですね」とにこやかに声をかける中。
フォウルは密かにスキップで小屋まで進んでいた。
「お帰りなさい、フォウル様!」
鈴の音、と言う形容詞を当てたくなる軽やかな声が、三人を迎え入れた。
「手、洗って来てくださいね。フライパン返して下されば、直ぐお食事出来ますから」
「おう。で、急だけどこいつらにも用意してやってくれる?」
言われて初めて、少年はフォウルの背後から現れたリートとイクスに目を向けた。
「こんにちは、刹。元気だったか」
イクスがにこやかに話しかけるのに対し、先程まで元気な様子を見せていた少年はやや表情を曇らせる。その左手はフォウルの腕を掴んでいた。
「……ん……。こっちは、誰?」
その片眼が捉えているのは、リート。
怖ず怖ずとフォウルの背後から顔を覗かせる少年と目が合い、リートは優しく微笑んだ。
「こんにちは」
それに、刹は小さく頷き返し、フォウルから渡されたフライパンを胸に抱えると俯いた。
刹は大事に育てられ過ぎた。
何時だったか、そうレイヴが言ったことがある。
それに対して、フォウルは苦笑いするだけだったと言う。
今日の昼食はオムライスであるらしい。
慣れた手付きで玉子を割った刹は、それを回収したフライパンに薄く敷くと既に作られていたライスを乗せ、フライパンを両手で持ち直すと板上のそれを丸めようと上下させる。
だが。
「……んーっ」
必要以上に力が込められた唸り声。
両手で持ち上げられたフライパンが小刻みに揺れるのに気が付いて、キッチンを通りかかったイクスはそれに手を貸そうとして。
──両手に布団を抱えていなければ、通れたのだが。
ばふっと空気の詰まった音と共に、視界が布団で埋もれる。数瞬後、顔を上げたイクスが見たのは唖然とした刹と、転がっているフライパンと……
オムライスの乗った皿と。
その皿を抱えて仰向けに倒れているリートで。
「だ、大丈夫か?」
なにが起こってこのような構図が出来上がったのか、いまいち判別不能ながら、二人を気遣ってみる。
リートが首を回して顔だけイクスの方を向き、胸の上の皿を動かさない程度に肯く。
刹は。呆然と見開いていた表情から、ゆっくりと唇が開かれ、床に転がったリートを指差す。
「──いま、落としたら転けてきて、んで、つぱーんて……」
まだ動揺しているのか、話の見えない羅列を呟いていく。
「……リート?」
「転んじゃいました」
対して、リートはあっけらかんとした明るさで微笑んだ。
「お片付けしてて、お皿を動かそうと思ったら転んじゃったんです。そしたら上からオムライスが降ってきたんですよ」
くす、と空気が和らぐ音がした。
驚いたイクスの前で、刹が可笑しそうに笑った。
見事な偶然に。そしてこの構図に、つられて思わず笑う。
「どした、お前ら……。なに笑ってるんだ?」
“仕事”と言って自室に行っていたフォウルが戻ってきた時には、もう事件の跡はどこにもなくて。刹は「なんでもありません」と微笑んだ。
その安らいだ表情に皆がまた微笑み──
ふと、フォウルは声を上げた。
「あ〜、さっき気が付いたんだけど、オレが刹に渡したフライパン、特製攻撃用フライパンじゃなかったか? 鉄板三重仕込みの」
通りで取り落とすほど重かったはずだと。
むー、と拗ねた刹の後ろで、リートはのんびり微笑み、イクスは頬を引きつらせた。
特製攻撃用フライパンて、なんですか……?
その疑問が氷解される日は、まだ来ていないという。
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