XとLが出会うまで

 院という一つの空間内は、更に各教室単位に振り分けられている。
 無論、教官や教室長ごとに各教室の性格が出てくるのは当然のことであった。血気盛んな劉教室。癒しの奇跡を扱う者が多く集まったことで、優しげな空気のホリィ教室……。
 そんな中、新米教官ルクティの担当する教室は、誰ともなく問題児集団と呼ばれていた。
 そして今、そのルクティ教室に新入生が現れると云う――

 その男は溜息をついた。
 彼、イグゼフォム・カルバニルとは、こんな男である。
 最高学年所属にして教室長。騎士道精神に溢れ、強きをくじき、弱きを助ける、正に在りし日の望まれし院生。長剣を軽々と扱う優秀な戦士でありながら高い教養を誇り、文の教官とも親しいという。それらは本人の才であり、同時にそれを上回る努力の賜物。
 院の鑑。
 しかしこの男─―そういった才能も努力も全て無に帰してしまうほど、巡り合わせの悪い男でもあった。
 例えば、朝に着くはずの新入生が夕方になっても現れず、その上院では珍しい気象の荒れから大嵐が吹き荒れて。幸い手に入れることが出来た傘は、しかし穴あき。空きっ腹を抱えたまま、それでも責任感だけで到着予定の待ち人を待ち続け。
 結局、伝達された予定日が一日早かったと分かったのは、ずぶ濡れのイクスが断腸の思いで寮に戻った深夜のことだった。
 彼はもう一度、深い溜息をついた。その拍子に、少し鼻が鳴った。

「あれ、教室長。何やってんの?」
 からかい半分、本気が半分の調子で、聞き知った声音が耳元に弾けた。
「何って――今日うちの新入生が到着だって言っただろ」
 そもそも、どうして自分だけが出迎え役なのか。
 協調性のかけらも求められないクラスメイトに沈痛な気持ちで返すと、常に年長のイクスをからかわずにいられない男は、やはり「そうだっけ」と嘯いた。
 一見無造作に前髪を掻き上げる。軽く入れられたメッシュが流れ、金髪に映えて一瞬の視線を奪う。その仕草はどこか格好を付けたもので。それでも院の学生らしく、決して隙はない、鍛え上げられたものだった。
「お前こそ何をしているんだ、ロアン。授業は?」
 言われて、ロアンは特有のチャシャ猫めいた笑みを浮かべる。
 軽い足取りで密かに一歩退くと。
「オレ、これからデート。授業はラメセスを見習って自主休講」
「――ったんなるサボりだろう!」
 思わずロアンを捕まえようと腕を伸ばし、しかし予め身体を逃していたロアンはそれを間一髪でかわす。くるりと身を翻し、数歩分距離を置くと、ふいに
「ちゃんと新入生待っててやんないと、いけないんじゃねぇの? 教室長」
 しっかりとした口調で言葉を紡ぐものだから、一瞬イクスは気をそがれて棒立ちになり。
「じゃあな。彼女いないイクス先輩」
 楽しげに言い放たれたのは、たぶん禁句。
「ロアン! こらお前、待てっ!」
 彼女いない歴二十年強のイグゼフォム・カルバニルだった。

 後少しという所でぬかるみに足を滑らせ、ロアンを取り逃がした上に制服を汚してしまったイクスは、憮然とした気持ちを鎮めるため、樹に手をついて深く呼吸を繰り返した。
「――大丈夫か」
「誰のせいだと思って……」
 浮上しかけた瞬間、間の悪いタイミングで挿まれた声に、また気の流れが変わってしまう。
 我ながら大人げない。
 と意識しつつも、きっと鋭い眼差しで顔を上げたイクスは、そこに別の人物を見付けて、意味のない狼狽えた呻き声をあげた。
「すまん……ロアンだと思って」
 まるで似ていない双子を間違えたことなんて、そうないのに。
 兄に善い感情を持っていないはずのレイヴは、しかし余り気分を害した様子も見せず、ただやんわりとした苦笑いを顔の端に乗せる。
「気にするな、昔はよく間違えられた。慣れている。それに――」
 ちらりとイクスを見て。
「愚問だった。大丈夫ではないな」
 皮肉でも冗談でもなく、真面目に言ってくるのはロアンに似ず、それでいて逆説的にロアンを思わせて。奇妙な感覚だった。
 それを振り切るようにイクスは言葉を発した。
「何をしているんだ? 授業は?」
 言ってから、ロアンに向けたのと同じ台詞であったと気付いて、なにとはなしに笑いたくなる。
「俺はこの時間授業を入れていない。それで、植物体系でも調べようかと思ってな」
 そう答えておきながら、少しなら話し相手をしていこうか、と配慮してくれるレイヴ。
 彼の存在を忘れてクラス構成に知れず愚痴を零していたことを恥じ、イクスは気持ちだけで充分だ、と心暖かく応じた。
「ありがとう、レイヴ。でも――」
「っ! イクス、動くな!」
「え?」
 べにゃり。
 何か柔らかいものを踏んで、イクスは恐る恐る片足を持ち上げた。何か置いてあった記憶はない。それに踏んだときの厚みと滑りから考えるに。
「ぐげ」
 カエルだった。
「生きてる……よかった」
 レイヴの剣幕から、踏みつぶしでもしたかと思っていたイクスはほっと胸を撫で下ろす。と、細い身体のどこからそんな力が出たのか、突然レイヴに押し退けられ、二、三歩たたらを踏む。
「──やはり、変種だ」
「は?」
 なんだか聞き返してばかりだと思いつつ、イクスはしかし馬鹿のように口をぽかんと開けているしかない。
 レイヴは嬉々とした雰囲気でカエルを摘みあげると──カエルは踏まれたときよりも切なそうに鳴いた──
「俺は今から生物室に篭もる。それじゃ、な」
 早く行きたいという気持ちを全開で言われて、引き留める理由などあるだろうか。
 ああ、やっぱり双子だったのだ、としみじみ感じながらレイヴを見送るイグゼフォム・カルバニル。カエルに負けた男だった。

 さて、双子が通り過ぎてから一時間も経つと、また手持ちぶさたになってしまうのは仕方のないことで。待ち人がいる立場であるから、移動範囲も限られ。
 端的に言えば、イクスは連日、特に昨日の疲れからくる眠気と決闘しつつ、ひたすら持久戦の構えをしているのだった。
「……は、いかんいかん。起きてないと」
 刹那気が遠くなりかけ、一人呟くと頭を振って、何とか意識を保つ。
 が、次の瞬間完全に目が覚まされ、信じがたい思いで再び頭を振った。その動きに合わせて毛の先から飛沫が飛び散る。
 空から水が降ってきたのだ。
 しかし今日は昨日の天候が嘘のように、院を印象づける特有の快い晴れ空だ。いや、そもそも自分は樹の下に居たのではないか。そこまで思考が動いて、大きく枝を張った気の上にある剣呑な紅い瞳と視線がぶつかった。
「ラメセス、何してる」
「目ェ覚めたか」
 かつて、自分たちが二人部屋で過ごしていた頃も、彼は乱されることがなかった。自分のテンポとスタンスを変えることなく、他人と必要以上に関わり合うことを好かなかった。
 だが、嫌ってはいなかった筈だった。
 その思いが、すでに古い物となった思い出と相成って、鈍い痛みをイクスに与える。
 ラメセスを動かせる者は、自分ではない。それが分かっていて、それでも次第に沸き上がってくる己にも理不尽な想いに突き動かされ、言葉はイクスの口から吐いていた。
「上で寝てたのか、じゃあ邪魔して悪かったな。でも今は授業中だろう。この時間、必修が入っていたはずだ。そっちはまたサボりか。何時も人の気も知らんで単独行動を繰り返して! 第一水をかけることはないだろう。俺は昨日から風邪気味なんだぞ!」
「馬鹿は風邪ひかん」
「そういう事だけ返事しないでくれ」
 疲れが溢れ出て、くしゃみが零れる。
 どうしてもラメセスに対しては平静でいられない。酷いコンプレックスだ。イクスの冷静な部分が指摘して、自分を嘲笑った。
 ラメセスはと言うと、ほんの少しの興味も刺激されなかったようで、樹から身軽な動作で飛び降りると、何処か一線を引いた醒めた眼差しで世界を見ていた。
 知っていた。
 ただ、理解したくなかった。彼が、外界のすべてを閉ざしてしまったこと。
 そうさせたのが、かつての自分だと言う、罪。
「──まだ寝惚けているのか、貴様は」
 微妙に危険な色を宿して、ふとラメセスは唇を歪めた。いやな、予感。
「ラ、ラメセスっ、待──」
「サービスだ」
 院史上最強クラスの力の主であるラメセスが、その膨大な魔力を解き放ったのと同時に、イクスの丸焼けが完成する。
 ひっくり返ったまま微かに痙攣するそれにはもう注意も払わず、否、ご丁寧に鉄板が仕込まれた靴で一踏みしていくと、ラメセスはその場を後にして行った。
 イグゼフォム・カルバニル。目覚める前に、永遠の眠りが目前だった。

 温かな“気”を感じ、瞼を開く。
 イクスの視界に広がったのは、まず艶やかな闇色の髪。滑らかで白い貌。頬だけは仄かに桜色を浮かべている。それから星空を見上げたような感を与える深い群青の瞳と、それを縁取る長い睫。緩やかな眉に、すんなりと通った鼻筋。
 思わず凝視してから、ふいに身体から痛みや、気怠さが取り除かれていることに気付いた。
「君が、治してくれたのか」
「はい」
 生まれ育った世界の環境上、奇跡をもたらす不思議の力には疎いイクスも、人を癒す力の持ち主が存在することは知っている。
 しかしそれを実際に体感してみると、なるほど神の奇跡に準えられるのも無理ないことだ、と感嘆してしまった。最早不調は何処にも感じられない。
 この、優しき技を使う少年こそ──
「君が、リートくん?」
「はい」
 淡く笑みを浮かべて、少年は肯定した。

 天使だ……。
 イクスは至福に酔った。それと同時に、この清らかな少年があの問題児集団と同一の教室にされる悲運に泣いていた。
 必ず、俺が守るのだ。
 ロアンの魔の手から、レイヴの実験から、ラメセスの苛めから――
 心の中で天に誓い終わって我に返ると、リートはにこりとしてイクスを見つめた。心を蕩かす清々しい穏やかな笑み。それからしっかりと相手を見据えると、耳に染み入る心地よい声音で名乗る。
「リートです。宜しくお願いします」
 そう言って恥ずかしそうに更に微笑んだ少年の周りの空気が輝いた、気がした。

 ――天使の笑みを持つ少年が、ルクティ教室の他の面子に負けず劣らずの問題児だと発覚したのは、それから三十分後のことだった。