夢から覚めても 3

「納得できません!」
 学生の殆どが知らないであろう、とある部屋の中で、アーデリカの声がしんと響いた。
 院の至宝──特別な存在である四人が向かいに座り、しっかりと立ったアーデリカに顔を向ける。本来ならばその後方に、もう一人の女性とその介添えが、そして最も特別な存在である彼がいる筈だったが、今はそこに誰もいない。
 その事に幾分腹立たしさを感じながら、アーデリカは昂然と顎を上げた。
「スィフィルとリートの成績差は取得ポイント上ありません。とすれば片方を残し、片方を退校させるのは筋が通りません」
 まったく持ってその通り、と皮肉っぽく呟いたリカルド教師の声は、少し大き過ぎた。隣席のカイ教師の咎める視線に晒され、彼は両手を宙に投げ出す。
 代わりに、劉教師が口を開く。
「教員会での決定だ」
「納得できません! 理由を!」
 間髪入れずに先程と同じ台詞を上げるアーデリカの前で、暫く沈黙が場を満たした。
 一人一人順に目を留めながら、アーデリカはゆっくり言葉を紡ぐ。
「理由がないとは言わないでしょう。教えて下さい。わたしを失望させないで下さい。……それとも、わたしには教えられない理由ですか」
 その言葉は、彼らにとって脅迫めいた物になることを知りながら、アーデリカは語気も荒く言い切り、そして大きく息を吐いた。
 納得がいかない事には、自分の全てで反抗しろ。
 それこそ、この場にはいない彼が教えてくれた事だった。
 やがて一瞬とも永遠とも思える時間が過ぎた後、この場にいるメンバー達の筆頭たるサイファが真剣な顔付きで立ち上がった。自然、アーデリカの顔付きも鋭さを増す。
「率直に言う。ルクティ教室のリートなる少年は“白き後継者”として認証された」
 自身も未だ完全には納得していないのだろう。サイファは教師を辞める少し前からすっかり青く染まってしまったその髪を軽く掻き上げ、アーデリカの様子を観察するように目を細めた。
 アーデリカは──激情で紅を履いた頬をしていたが、放たれた言葉を理解した途端、今度はその衝撃を隠そうとして蒼白になった。
「そんなこと……フォウルが認める訳ないわ」
 そうは言ったものの、彼にそれを決める権限がないのは分かっていた。
 “白”を決める権利は誰にもない。それは世界、と宝珠の意思にのみ与えられた特権なのだから。
 次代の“白”となる素質ならば……リートを手放す選択肢はない。
 一方でスィフィルが処分を受けるのは、その隠れ蓑だ。公式には一時期の閉じ籠もりを考慮し、との発表だった。
 スィフィルもリートも、二人とも残して悪い法が何処にある。アーデリカは口火を開こうと、軽く唇を噛んだ。
「アーデリカ教室長、君の努力は認めるが」
 どこか涼やかなカイ教師の声が、綺麗に木霊した。
「オナー・ホワイトもこの処分を決める会議に参加していたのだ」
 そんな馬鹿なことが。頼みの綱を探して、視線が奥の空席に止まる。
 “院の姫”。
 自分が今、その地位にあれば。
 初めて、アーデリカはその地位を熱望した。
 そうすれば。その人の一言に、彼らは逆らえるはずもないのに。
「──姫はどちらの問題も、“白”の承認に従われるそうだ」
「それなら! 彼に直接直訴します!」
 机に手を衝き、アーデリカは急いで彼の所へ向かおうと身を翻した。タイムリミットは今日中なのだ。明日の朝にはスィフィルが帰されてしまう。
「リカ、フォウルは院を出ている」
 リカルド教師の言葉に、アーデリカは背筋が凍るのを感じた。思わず仇を見るような目で振り返り、どちらかと言えば“味方”である教師を怯ませる。
 しかしその言葉に嘘は含まれていない事を見出し、アーデリカは目を閉じた。
 行く手が塞がれたのを知って。

 ごめんね……
 己の力不足を責め、何度も謝罪を繰り返すアーデリカに、いっそ晴れ晴れとした表情でスィフィルは微笑んだ。
「気にせんでおくんなはれ。先輩のせいやない、ボクの力不足やし」
 もう、行かないと。
 見送りはここまでで結構ですさかい。そう断って、スィフィルは横に立ち竦んだリートに向き直った。
「ボクの分も、頑張ってな」
 中途半端な表情を浮かべていたリートは、その言葉にはっと目を見開き、覚えておいて貰える顔が本当の笑顔であるように、頬を緩めた。
「僕、ちゃんとやります。スィフィルさんの分まで!」
 それを合図にしたように、見送りにやって来ていた皆が口々に別れを告げる。
「元気でな」
「もう、落ち込むんじゃないわよ」
「また帰ってこいよ!」
「待ってるからな」
 音の洪水に呑まれかけ、スィフィルは不思議と笑い出したくなった。そして、代わりに一粒の涙が零れた。

 転移準備の為に暫く待つように言われ、スィフィルはぼんやりとそこに佇んだ。
 ここまでの見送りを断ったものだから、急に辺りが静かになり過ぎて、自分がどこか場違いな気がする。
 実習の時はこんな風に待たされなかったけど、と今更取り留めもない事を呟いて、時間を忘れようとしてみる。と──
「スィフィ! 今日帰りか?」
「フォウルさん」
 森で助けられて以来の再会だった。
 動物、それも猫を思わせる動きで目を瞬かせ、人の目の前で一つ欠伸をしてみせる。
「帰っちゃう奴が出ると、なんや寂しゅうなるな──ん、うつったな」
 色合いの混ざった髪を掻き上げ、フォウルは意味もなく地面を蹴ると、目を細めてスィフィルの顔を覗き込んだ。それに軽く反応を返して、スィフィルはあまり深刻に受け取られないように注意して口を開いた。
「ボク、せやけど此処に来れたんは、夢みたいで、なんか間違いやったんちゃうか思うに」
 ふいに。フォウルはその表情を和らげた。
 纏っていた明るい雰囲気が消え、その双眸に埋め込まれた猫目石が、外見に似合わない老成した光を放つ。その光に魅入り、スィフィルは言葉を失った。
「……間違いなんかじゃねぇよ」
 咄嗟によく回る口が動いた。
「そないなこと言っても、ボク頭良かないし、十字架背負った田舎もンやし、それに」
「オレが言ってんだから間違いない!」
 はっきりと言われ、今度こそスィフィルは立ち尽くした。
「お前がここに来たのは必然だ。お前が世界を知り、真の戦士として成長する為の」
 曲がることなく育った木は、却って折れてしまい易い。
 世界がこんなにも広かったこと。自分の力を過信しないこと。人と協調して事を行っていくことの必要性。みんな“院”で学んだこと。
 そこで、こほんと態とらしい咳払いをして、フォウルは懐から一振りの剣を取り出した。
「んで……これはお前に怪我させちまったラメセスから、餞別──と言いたかったんだが、あいつがそんな殊勝な真似する訳なくてな。この前出掛けに無理矢理もぎ取って来た奴」
「はぁっ?!」
 受け取って、スィフィルはそれをまじまじと凝視する。無銘の剣ではあっても、武器としては見事な一品であることは直ぐに分かった。そして、良く手入れされた様子も。
「驕ることなくその力を使え。お前には、出来るだろ」
「──はい」
 戒めとして。誓いとして。
 この言葉を忘れまい。スィフィルはそっと瞼を下ろした。
 力を抜いてみれば、辺りはうるさいほど生命に満ちあふれているのを感じた。
 鳥が囀り、木陰から二人を伺う小動物の陰が見え隠れする。豊かに生えた草花からは新たな息吹を宿した大地の匂いが鼻孔を満たす。
 自分は、一人ではなかった。

「スィフィルくん、準備は整った。来たまえ」
 夢から覚めたような気分でスィフィルは振り返った。
 歩み出しかけ、ふとフォウルを振り返る。
「なんだ?」
 微笑むその人に尋ねたいことは、山とある筈だった。
 それでも、出てきたのは一言だけだった。
「また……会えましゃろか?」
 院で出会ったみんなに。
 そしてあなたに。
 その問いに、フォウルはびしりと指を一本立てて答えた。
「生きてりゃ会える!」

「はい!」


 スィフィルはもう振り返らなかった。