Affection

「早く帰ってくるって、おっしゃったのに……」
 時折嗚咽を耐えるようにしながら、刹は幼い子供に戻ったかのようにたどたどしく言葉を紡いだ。
 レイヴはぎこちない手で、刹のきめ細やかな黒髪を指で梳く。安心させるように、あやすように、優しく。
 見付かった時から、少年はぼろぼろと大粒の涙を零し続けていた。それはこの世の終わりのような切なさだった。いくら院の気候が調節されているとはいえ、いや、だからこそ夜は強まる寒気に当たり、もともと色白な頬は紙のように真っ白だった。漆黒の髪が浴びたてのシャワーの水飛沫で煌めく様や、青ざめた唇をきゅっと噛んだその表情。
 鍵がかかった玄関の前で立ち往生しているそんな姿を見付けたイクスが刹を招いたのは、当たり前の事だ。それは寮の見回り中の出来事であり、彼は教室長として自らの責務に厳格だったが、そんな様子の刹を規則だからと追い出すほど、冷酷な人間でなかったからだ。
 密かに呼び寄せられたレイヴと、何処から聞きつけたのか姿を見せたロアンは、片方は小さく、もう一方は大仰に溜息を吐いた。
 事の発端は少年にとって神にも等しい人の不在。
 それが不安を呼び、どうしようもない孤独を抱えて人気のある場所へ来たのだ。それだけの事。
「きっと御仕事が長引いているんだよ。刹はいい子だろ、我慢できるよな」
 濡れた瞳をのぞき込み、幼子に接するように優しく言い聞かせるイクスに、何時もであれば子供扱いに反発する刹が、今は小さく肯いた。
「じゃ、今日は遅いから泊まって行くといい」
「おいおい、冗談だろ?」
 ロアンはその提案を一蹴し、今日ばかりは自分に理がある筈だと殊更皮肉気に唇の端を吊り上げた。
「無断外泊、夜間の寮内移動禁止。なのにこいつを泊めるのは許されるのか? フォウル様の越権だな」
「刹自身には何の罪もないことだ」
 同じ色の瞳が、眼差しを鋭く狭める。
 無数の世界に二人きり、同じ波長を持って生まれた双子。運命の星が瞬く時に生まれたはずの彼らは、けれども葛藤や信念や、そんな些細なことですれ違いばかりだ。
 双子の兄は、ほかの誰が思っているよりも実は余程聡明だった。刹と言う子供についても、他者とは違う見解がある。即ちこの子は他人に二種類の相反する感情を抱かせる存在なのだ。フォウルやレイヴたちが抱くような庇護欲か、さもなくば自身が抱いて仕方ない──
「そもそもフォウル様が帰ってくるとは限らないだろ。案外、お前の面倒を見るのに飽きたんだったり──ぃっ」
 いっそ清々しいまでに見事に腹に決まった刹の拳に、ロアンが顔をしかめる。
 目に涙を浮かべていたが、それ以上に怒りの為なのが顕わな朱に彩られた顔で、刹は頭一つ大きいロアンを睨み付けると、更に回し蹴りを一発撃ち込んで飛び出して行ってしまった。
 玄関の扉を勢いよく開け放して、未だ明けない夜の中へ。
「……平手で顔だと思ってたから、腹はきた……」
「ロアン!」
 さすがに二発目の蹴りは防御したものの、最初に殴ってくる位置を読み違えた、と呻きロアンは床に座り込んだ。もっともその動作の何処までが本気かは分からなかったが。
「いい加減な事を言って刹を怒らせるからだ。要は自業自得だな」
 弟が切り捨てるのを、ロアンはその慈悲に縋る演技らしい笑顔を浮かべて聞き流した。
「フォウル様が甘いから、オレが頑張ってるつもりなんだけどなぁ」
 清浄で幼い者に対して、堕としたいと言う昏い想い。それを押さえ付け、抱く気持ちを歯痒さにすり替える。せめて発破に従い成長してくれれば、その努力も不要となる。
 だがレイヴの意見が違う事も彼は知っていた。そもそもの反発は別としても、刹のような純粋培養された者に否定的感情を与える事は悪影響だと考えている。だから今も、ロアンの加虐的な台詞の数々を忌々しく思い返しているに違いない。
「あれ〜、今の音なんですか? 何かありました〜?」
 眠そうな声をしたリートが現れ、イクスはああ、溜息を零すように呟いた。
「フォウル様、刹を泣かしたこと知られたら怒るだろうな」
 その瞬間。
「へぇ。詳しく経緯を知りたいもんだな」
 と、フォウルが窓からひょっこり現れたのを見て、イクス達は今度こそ本当に、言葉にならない呻き声を上げたのだった。

 その気になれば、院生よりも院の細部まで熟知している刹に、絶好の隠れ家はいくらでも用意されている。
 今や人恋しさよりも、ロアンへの怒りとフォウルへの切ない思慕で固まった刹が向かうのがそういった場所だったのは、別段不思議なことでなかった。
 だが、独りになるつもりで他の者と出くわす偶然が、この世から皆無な訳でもなく。
「……ラ、メ──」
 例えば今夜。
 ラメセス=シュリーヴィジャヤはつまらなそうに紫煙を吐き出すと、何を考えているのかまるで分からない紅の視線で、刹の片目を射抜いた。
 刹は一瞬躊躇った。
 彼は普段でさえ一緒にいたい相手でない。が、そこで回れ右して行くのもあからさま過ぎる。何より相手を怖がっているようでないか。仕方なく、刹は些か乱暴なやり方でラメセスの横に座った。
 すると特に興味はないのか、ラメセスは刹を完全に黙殺する。
 どうやら今夜は機嫌が良いらしい、と刹は落胆した。身勝手な話だが、何処かへ行くよう命じられるか、いっそ去ってくれれば都合が良かったのに。
 話など有り得るはずもなく、静かな時が過ぎて行く。
 時折遠くや、時にはひどく近くで見知った者たちが自分を捜している様子、声がして、刹は小さく身を縮めた。
 ふと瞳を閉じたラメセスが、抑揚のない声で呟いた。
「フォウルの奴が来るな」
 驚いて、刹は顔を上げる。
 帰ってきた、と最初に思い、次に早く会いたいと。それから、やっぱり今は会いたくない、と。
 ロアンに言われるまでもなく。自分はフォウルがいなければ生きていけないだろうけれど、彼はそうでないと認識していた。否、違う。本当はロアンだって知らないのだ。フォウルがどれだけ刹を大事にしているのか。どんな我が侭も叶えてくれる。どんな事をしても、自分の元に戻ってくれば、何も言わずに抱き締めてくれる。父親と言うものがどんな存在か刹は知らないけれど、きっとフォウルの事を言うに違いない。
 でもそれでは足りない。何時でも自分だけを可愛がって欲しい。こんな欲望がある。その気持ちはフォウルに捧げるに相応しくない。そう思って、刹は顔を歪めた。
 逃げたい。そんな気持ちで腰が浮く。
「必要ない」
 逃げるな、と言ったのは当然一人しかおらず。
 他人に干渉しないという話を裏切るラメセスの言葉に、一瞬刹は驚いて、ぽかんと口を開いた。
「でも……」
 今聞かれたら、堪えきれずに言ってしまう。
 もっと自分を見ていて欲しい。自分にだけ構って欲しい。それでなければ、きっと寂しさの余り死んでしまう、と。
 フォウルは何と応えてくれるのだろう。何時もと同じように、刹の我が儘を叶えてくれるだろうか。
 彼はそうするかもしれない。
 でも、それでは刹が好きなフォウルでなくなってしまう。自由に世界を駆け巡り、人々に愛され愛する彼でなくなってしまう。その姿が、とても輝いているところこそ、刹は好きなのに。
 何もかもから愛されて、何もかもを愛する人から、一番に愛されたい。
「やっぱり、だめだ……!」
 言えるわけがない。でも、言わないときっとこの想いは通じない。
「好きな奴に愛して貰わないと死ぬなんて、あるわけない」
 刹は再び、常にない助言をするラメセスに驚愕した。当の本人は、らしくない自分の言葉に軽く嘲笑って、金と黒の混ざる髪を掻き上げた。夜半故の錯覚か、記憶より黒い髪をしていたのだなと感じる。
「弱さを美化する馬鹿の理屈だ」
 それなら、何のためにこんな厄介な感情があるのか。
 問うだけ無駄だと、ロアンなら茶化しただろう。せめて相手を見ろと。だが今は思っている事をすべて吐露したい気持ちだった。
 そう、一人をこんなにも想う、厄介な感情が、もしなければ──
「愛情を抱けない人間は、死ぬそうだ」
「死ぬ?」
 それは人としての心の死。愛情を抱けない人間は、心がひび割れてしまうから。
 重い摂理を含んだ言葉に、刹はじっと耳を傾けた。
 それは、フォウルを想う気持ちならば持っていてもいい、と言うことだろうか。せめて、自分が一番に愛しているのだと主張する事は許されるだろうか。
 不意に自分を喚ぶただ一つの声が風に乗ってきて、刹ははっと立ち上がった。
「刹! オレはここだぞ!」
 お前の居場所は、ここだぞ。
 そう呼び掛けられて、刹は居ても立ってもいられずに慌ただしく服に付着した幾ばくかの泥草を払い落として、ラメセスに「ありがとう」と叫んだ。
 その時脳裏を駆ける、見知らぬ風景。
(──え?)
 誰かと、肩を並べて。ラメセスが、見たことのない穏やかな表情で微かに笑う。
 刹に宿る神眼が見せた、これは過去か未来か。
「ラメセスも、会えるよ」
 突然の台詞に、不審そうな眼差しが刹に突き刺さる。
 だが刹は『見た』のだ。普段はフォウルの言いつけで、自分にだけ見える世界については語らないように言われているけれど、今回だけは目を瞑ってもらう。
「その人がいてくれれば、後は何にもいらないって、そんな人が」
 刹も、フォウルさえ居てくれれば、後は何もいらない。

「刹! 遅くなって御免な。でもロアンの奴はしっかりお仕置きしておいたからな! お土産も一杯あるぞ。古い知り合いにも会えたし、面白い奴見つけてきたぞ。刹の友達にしてやろうな」
 胸に飛び込んできた刹を思いきり抱き締めて、フォウルは目を細めた。
「はい、おれも家にいなくて御免なさい。それでもってお帰りなさい、フォウル様」
 それに対し飛び切りの笑顔で微笑むことが出来て、刹は満足した。

 世界中にこの人が自分の一番大切な人だと叫んで回りたい。それこそが喜び。それが自分の愛だ。