白を継ぐ者 青金色の瞳・後編
なんだったのかしら、あれは。
毎日あんなに沢山の愛の言葉を囁く男が、ほんの一言「愛してる」と言えない。ジゴロなりの最後の一線、とでも言うのかしら。
勿論エファ仕込みの撃退戦術でロアン退治を完了したわたしは、でもなんとなく彼の発したあるフレーズが気になってフォウルの家に向かっていた。
それとなくキーワードを配置することで、相手の脳裏に知り得る事を思い浮かばせ、それを読み取るロアンの術。ただの視覚情報収集の方法が、まるで催眠術のように鮮やかに相手の思惑を読みとるものだから、一部では超能力(サイキック)扱いされている。
でもそのキーワードには真実を配置しない限り、得たい情報は上がってこないはずよね。
とすれば、“緊急事態”もあながち嘘と断定できないわ。
森の中心部へ──フォウルの家に近付いていくに連れて、次々と時空が変わっていく。
自然と姿勢が正され、頭の中から余計なことが抜けていく。
わたしの大切な時間。
ぶわり、と空間の裂け目がわたしの身体を通り抜けて行った。
忽然と現れるこぢんまりとしたログハウス。
でも、今日はどこか騒然とした印象があるのは気のせいかしら。
「フォウル。刹? いないの?」
いつもなら玄関の鐘を鳴らした途端に、人様のことを邪魔扱いして憤慨する刹だとか、それを宥めながら戸を開けてくれるフォウルだとか。そんな賑やかで気持ちのよい二人が迎えてくれるのだけれど。
今日は、鐘の音が閑かな森の中に吸い込まれていって、消えていってしまった。
「……開けるわよ?」
断って、わたしはそっと扉を押した。
あれでいてフォウルは危機管理意識が薄いから、刹がチェックしない限りこの家には鍵がかかっていない事が多いのよ。
あんなに危険が身近な“白”のくせに。
思った通り、扉は静かな摩擦音をたててわたしを迎え入れてくれた。
自慢するつもりはないけれど、さすがに上級生ともなれば、今この家の中に人がいないことくらい直ぐ分かるわ。
問題は何時から、どうしていなくなったのか──よね。
フォウルが仕切っている以上、昼食後直ぐに試験を再開するとは考えにくいわ。刹と二人で出ている……と言うことも考えにくいし。だって、それなら刹が鍵を掛けていく筈よね。
意味深なロアンの台詞のせいで、何かが起こったと言う発想に導かれてならないわ。
「隠れて見てるんじゃないでしょうねぇ」
二人の名前を交互に呼び、扉という扉を開けて回ったけれど、それは徒労に終わった。
……気になるなぁ。
ことに今日の転入生の話を聞かされていなかったものだから、余計フォウルが何をしているのか気になって仕方ない。
「う〜ん」
こんな時は授業に出たってロクなことないわ。なんて、フォウル譲りの戦術で勝手に決めつけて、今日はこのまま二人、もしくはどちらかが帰ってくる迄待ちましょう。どうせ後一時間だけだし。
でも、それにしては手持ち無沙汰ね。
この家に置いてある本はフォウルの悪趣味のせいで、とてもわたしに読めるようなものじゃないし。内容もさることながら、言語がね。
かといって寮まで戻ったら誰に会うか分かったものじゃない。
……料理でもしてようかしら。
そうね、先程は中を覗いただけのキッチンに戻って、冷蔵庫の中身でも見てみましょう。それで何か暇が潰せそうなら作るなり、なんなりして。
それは要するに、勝手に使っても刹が文句を言わなそうな食材があれば、なんだけど。
余り過剰な期待はせずキッチンに入ったわたしは、ふと一抱えサイズの綺麗な木箱が置かれているのが気になった。
「なにかしら」
まさか食用ラットとか、文化圏の違いを認識させられちゃう代物じゃないでしょうね、と少しばかりの緊張に大方は好奇心でそれを開けてみる。
別にいいわよね? 台所に置いてある時点で将来的に食べる物のはずよね?
気になる中身は……。
「──リンゴ?」
綺麗に紅く色付いた、素人目にも高価そうな形も艶もいいリンゴがぎっしりと詰められている。
こんなの二人で食べ切るつもりかしら。今が一番美味しそうなのに。
大体果物と言うものはいい時期を見計らって食べてあげるべきだと、わたしは思うのよね。
それに……これだけあるなら、少しくらい使っても良いわよね?
色々と試したかったレシピを思い出して、わたしはふいに楽しくなってきた。
「強力粉に薄力粉に……」
粉をふるいにかけて山状にしたら、バターを大体1,2cm角に切って、と。
「あ、揚げるのもやってみようかなぁ。シロップ煮とか」
そういえばリンゴを使った炊き込みご飯なんていうのも聞いたことがあったわね。特別味には残らないらしいんだけど、リンゴ酸が健康にいいとか。
粉の山をドーナツ状にして、少しずつ冷水と混ぜ、麺棒で思い切り伸ばしていく。隣の調理台で火に掛けている鍋は、だいぶ水分が抜けたらしい。それを見やり、わたしは棒に込める力を少し強くしてやった。
歪な長方形の形が出来たところで、三つ折りにしてラップでくるむ。冷蔵庫で寝かせないといけないのよね。
「シナモン余ってるし、焼きリンゴにしよ」
選抜されて荷詰められたのだろうリンゴから、独断と偏見で栄誉ある焼きリンゴ諸君を選び出す。ま、気分で掴んだ子なんだけどね。
芯をくりぬいて──こういうのはコツがいるのよね──バターを詰める。勿体ないくらいの蜜がこぼれ落ちんばかり。うん、おいしそう。
砂糖砂糖、と。さっきフランベするのに使ったカルバドスも掛けて。
アルミで包んだら、大体オーブン一時間以上ね。
さて次は……。箱から三個ほど取り出したリンゴを台所において、ふいにちょっとした手抜きを思い付いたわ。
「ちょっと君、リンゴ切ってなさい」
わたしの言葉を媒介にして、包丁が素早くリンゴの皮を剥き出す。ああ、この前開発したばっかりの術だけど、結構ちゃんと構成出来てるじゃない。……わたしより巧いところがしゃくに障るんだけど。
生地の方はそろそろいいかしら。
取り出すのはこちこちに固まった生地──設定温度低いんじゃない?
そうね、後は。
あら、ところで「少しくらい」の範疇って、どこまでかしら。
ふいに、この小屋へ近付いてくる気配があってわたしは顔を上げた。ここへ一直線へやってくるのは、おそらく刹。
無断で使わせて貰った、恐らく刹のだと思う小さ目のエプロンをそっと外して畳む。
大丈夫、さっき片付けておいたから問題はないわ。
それだけ確認すると、わたしは刹がドアノブに手をかける一瞬前を見越して扉を開け放ってやった。
「うわぁっ」
「おかえり!」
そんなに驚くなんて修行が足りないわよ、刹。
「な、なにしてるんだよっ」
ちょっと料理を。と言える量じゃなくなった数々のリンゴ料理を思い出して、わたしは一瞬だけ言葉に詰まった。
でもそんな隙を見せちゃ駄目。
「刹こそ遅いお帰りで、フォウルはどうしたの?」
ロアンを見習って、意地悪く笑ってみせる。
フォウルの名前を出した途端、刹は目尻をきっと持ち上げた。本当にこの子は分かり易いわね。
どうせ押し掛けて迷惑がられるなら、こっちも少しは迷惑かけてやろうじゃないの。
──エファに影響されたかしら。
「す、少し出掛けてた! フォウル様は会議!……たぶん」
嘘が付けない子よねぇ。あのフォウルが育てたなんて信じられないくらい素直だわ。
相槌みたいな、先を促すような声を出してるわたしの前で、まず洗面所にて手洗いとうがいを済ませる。何時ものことながら本当に躾が出来てる。多分、大雑把と言うより気にしないフォウルや、薄らぼんやりしたルクティ教師に教えられたことじゃないわね。
着替えてくると言って、刹は自室に駆け込んだ。なにも宣言しなくてもいいのに。律儀ね。
その間にわたしは台所へ戻って、リンゴ料理の数々をあるものは冷蔵庫に、あるものは棚に、と納めておいた。刹が帰ってくる前に、何も慌てて片付けなくてもよかったような気がする。
「アーデリカ?」
居間からカウンター越しに刹が顔を覗かせた。
「さっき言ってたお出掛けって、フォウルと二人で? 転入がどうって話は?」
「なんでそんなの知っているんだ」
む、と頬を膨らませるけど迫力は全くない。
どうなの、と重ねて聞くと、フォウルと一緒だったと言う辺りは少し頷いたようだった。
「わかった」
いい色に焼けたパイを取り出せた。それに目をやった刹を盗み見て、素早く後ろへ足を動かす。オーブンの蓋が閉まる音だけがした。
包丁──さっき一人で切らせてた子を持ち上げて、さっくりと切れ目を入れる。うん、中はジューシーに出来てるわ。
「それで、帰ってくるなりカイ教師に連れてかれちゃったのね」
刹が一人でとぼとぼ帰ってくるなんて、大方そうだろうと思ったのよね。会議、と推定するには迎えはカイ教師辺りが妥当だし。
どうやら図星だったようで、刹はどうして分かったのだろう、と完璧に表情が語っている。
わたしは少し微笑んでやって、パイを切り分けた皿を渡した。温めておいた牛乳のカップも出してやる。
後はわたしの分と、フォウルの分を取っておいて。
うん、やっぱり我ながらいい出来だわ。
行儀悪くカウンターにもたれ掛かったままパイを食べ出したわたしに一度視線をやって、刹は椅子を引っ張り出してくる。それからフォークを手にしたままウロウロと動かして……ああ、フォウルを待ってるの?
と、玄関の扉が開く音がした。
目の前で弾ける笑顔が、あっという間に玄関へ出ていこうとして。
「お帰りなさいませ、フォウル様!」
椅子に沈められる。
何を急いだのだか、玄関を入ってから転移したらしいフォウルに視線を送ると、わたしにだけ見える位置で、決まり悪そうに微かに笑った。
それから、下からの期待を込められた視線に向き直る。
「刹。大丈夫だったか? 泣かなかったか?」
「泣いてません」
……まさかそれは、わたしに苛められたと思ったとか言うんじゃないでしょうね。
勝ち気なことを言う刹の頭を一頻り掻き乱しているフォウルに、段々腹が立ってくる。
「フォウル、おつかれさま」
会話が途切れたところで、すかさず注意を向けさせる。
「労を労ってアップルパイを焼いてあげたわよ」
パイの乗った皿を見せると、フォウルの目が輝いた。元々暇つぶしで作った料理だし、本当は何の労だか知らないんだけどね。
そのまま嬉々として囓りつきそうな勢いのフォウルを止めたのは、勿論刹。洗面所に引っ張っていく。台所で洗っちゃえば早いのに。
その間に、わたしはミルクを温め直して食卓の方に皿を移動させる。全く手を付けられていない刹の皿と、フォウルのと。わたしは自分のカップに飲み物だけ継ぎ足して、先に椅子に腰を下ろした。
丁度ここで、二人が帰ってきたわ。
直ぐさまパイに向かう二人。
……あ、そう言えばフォウルって猫舌だったわよね。ミルク、温め直さない方が良かったんじゃないかしら。注意しようかな。
「んー、美味い!」
ふいにフォウルが言うから、タイミングを逃しちゃったじゃない。これで舌を火傷しても半分は自業自得よ。
「でも、リンゴなんか何時申請してた?」
そうねぇ、わたしは自分で申告するなら柑橘類が好きな方だし……って。
「だって、来たらココにいっぱいあったから。二人だけであんなに食べるの?」
綺麗な、厳選品箱詰めなんて。贅沢ね。
そうだ、未だリンゴ料理見せてなかったのよね。そう思って立ちかけたとこで。
「あああっ、フォウル様!?」
悲鳴が聞こえて、わたしは目を見張った。
「ちょ、どうしたのよ、フォウル!」
どんなタイミングだろうが切り出しておくべきだったわ!
何をトチ狂ったのか、大嫌いな熱いミルクをカップ一杯完全に喉に流し込んだフォウルが盛大にむせている。
こ、これは刹に任せて逃げるべきよね。きっと。
そう思って、わたしはあたふたと駆け回りながら、でも一体どうやってあの膨大なリンゴ料理をここの二人に押しつけて帰るかで大いに悩まされたのよ。
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