白を継ぐ者 紫紺の瞳・後編
その一瞬で、状況は大きく変わった。
乾いた破裂音を脳が関知するのと同時に、おれは後ろ手に縛られていたため一気に腰を落として、紫玉を左手に納めた。直ぐさま“風の刃”を呼び出して黒糸を切り裂き、自由になった右手でリートの腕を取る。
板を蹴った時には、続けて浮遊の術が作動していた。
渡されていた板が大きくたわみ、おれはつい忘れていたイクスを思い出してぎょっとしたが、そのイクスはどうやって戒めを解いたものか、振り落とされる直前におれの紫玉に手を重ね、術の効果をぎりぎり受けていた。
さすがに定員オーバーなのか、高度は上がらない。
大穴の周りを警邏していた黒フードたちが、宙に辛うじて浮かんでいる格好のおれたちを狙ったのが、気配で分かった。
──が、おれたちが危機感を覚えるより早く、それは消える。
フォウル様の方に犇めいていた黒フードたちも、あっという間に倒れ──端から塵になっていく。
そしてようやく、おれはフォウル様のお顔を見出すことが出来た。
「フォウル様っ!」
おれの声にフォウル様は振り向き、人差し指と中指を高々と天に向けられる。
おれは荷物を抱えたまま最大速度でその場へ飛んだ。足が地面に着いた途端、フォウル様から抱き締められる。
「眼布、取られちゃったか。大丈夫だったか?」
「……はいっ」
ほっと息を吐き一歩距離を置いてから視線を動かせば、やはりルクティの代わりにフォウル様のお隣に立つ、流れる白金の髪が陽光を受けて輝く、細身の男。
フォウル様のお仕事をお助けする立場上、殆どの院関係者とは面識があるはずだけど、こいつの顔は記憶にない。
「馬鹿な……」
低く潰れた呻き声が空から降りてきた。
やつは、ルクティが影から飛び出しても対処できるくらい上空に浮き上がり、ぎらぎらと光る双眸でこちらを睨め付けていた。
またあの凄まじい殺意が場を満たして、おれの身体が強ばった。
と、その前に立たれたフォウル様の陰に匿われて、その圧力から抜け出せる。
「院生でも学生でもない奴、連れてきたぜ」
何かの謎かけ、なのだろうか?
フォウル様が放つその言葉には、ひどく楽しそうな色が混ぜられていた。
一瞬冷気のような殺意が膨れあがり、でもおれはフォウル様の背中にしがみついて、そこで世界で一番の安心を感じていた。
少しすると、気も鎮まる。
「それで、どうするんだい? 交渉は決裂なのかな」
相変わらずと言うか、今更なことを言い出す。
「いや、今のはルクに手を出させる気はないって事。取引は別ものだろ?」
フォウル様が何を言っていらっしゃるのか、おれは次の言葉が言い出されるまでわからなかった。
「こいつらを無事に返して貰った以上、白は……一旦渡してやるよ」
ええっ?!
おれが驚いた以上に、あいつは驚かされたようだった。
当然か。こんな事を言われて驚かないやつがいるわけない。なにしろ、今更宝珠を渡す理由もありはしないのだから。
でもフォウル様は、冗談でもなんでもないつもりみたいだった。
かざされた手の平に白い閃光が瞬く。大気中の光量がフォウル様のその一点に集中したかのように、圧倒的な輝きが、そこにある。
白い光を放つ、院の至宝。
白の宝珠。
絶大な力の象徴であり、次元を制する最強のアイテム──
そんなものを簡単に渡して良いわけがないのに、前を向くフォウル様の顔は……
「もしもお前がこれを欲するのなら、受け取れ。“白”の力を恐れないと言うのならな」
……何かを諦めたかのような静けさに満ちていた。
「欲するなら?」
宙に浮かんだ白の宝珠を見据えて、やつは言った。
「恐れないのなら?」
決して宝珠からそらされることなく、その瞳は何かに憑かれたような狂喜を宿している。
ふと、おれの直ぐ傍でフォウル様が息を吐いた。
「誰が……誰が拒むものか。シヴァ様の望まれるものを」
思っていたよりも、その声音は静かだった。
そして、やつはゆっくりと白の宝珠をその手に納めて……フォウル様がおれの方を振り向いて、そっと腕を伸ばされるとおれの身体を包み込まれた。
前が見えなくなる。
やつの哄笑。周囲が息を呑む音。それらが気になって、おれはフォウル様の腕から抜け出そうとしたけれど、それは優しく押し止められた。
いつもおれを守って下さる腕に抱かれ、音だけが唯一の情報をもたらす。
その心地よさの中で、おれはそっと瞼を閉じた。
やつの科白も、なにもかも、遠い。
「それはお前への手向けだ」
フォウル様の言葉だけが、やけに唐突に近くで響いた。
「中途半端な知識より、無知な方がまだましだぜ」
呟かれたフォウル様の背後から、異なる次元が開かれた時のような気配がざわり、と蠢き──
背筋が凍り付いた。
見るものは何もないと言うのに、両眼が見開き、自分の意志では閉じられなくなった。
強い風のようなものが吹き付けてくる。殆どは壁になってくださったフォウル様に阻まれ、おれにまで達さない。しかしそれでも、おれは二、三歩たたらを踏んだ。
風じゃなかった。
少なくとも、普通におれが「風」だと認識している現象とは別物だった。
自分という存在が揺さぶられる、それは凶器だった。
高く、止むことのない轟音を響かせながら、そのおぞましい風は荒れ狂った。
──いや、あれは叫ぶ声だ。
存在を剥ぎ取られる痛みに、苦しみに、恐怖に。
それに気付いた瞬間、絶叫するあいつの姿が、フォウル様に遮られて見えないはずのおれの網膜にはっきりと浮かび上がった。
これがおれの只一つの能力だというのなら。
そんなものはこの瞬間に捨て去りたい。
俺の眼は──どうしていつでも視たくないものを目にしてしまうんだ!
辺り一面から音が消えて、おれは独りぼっちの世界に取り残される。
見えない闇の中から手が……
足下から底のない沼に沈められて……
おれは……
おれは──!
「刹っ!!」
おれが、引き上げられる。
おれと言う存在をあるべき場所に導いてくださる。
視界に飛び込んできたフォウル様の顔が、おれの意識を確認して微笑まれる。誰よりも優しく。誰よりも、強い意志を秘められた瞳で。
「フォウル、様……」
「やなもん見せちまったか? ごめんな」
そう言って振り向かれた視線の先には、もう、あの存在根本を揺り動かされ、声を上げていたはずのあいつの姿はなく。
白い、力が。
しばしの間を経てから伸ばされたフォウル様の手に戻り、ゆっくりとフォウル様に重なり──“同化”していく様子に。
おれはふと、既視感を感じたのだった。
先に見たことがあると、思ったのか。
それとも、再びこの光を見ることになると、思ったのか。
おれを導いて下さるフォウル様に宿る白い光が、おれに最奥の恐怖を引き起こす事実を知って。とてつもない息苦しさとなって襲われる。
この力を、リートが受け継ぐと言うのだろうか。
おれにはその光景が視えない。いや、視たくないのだろう。
“白”はフォウル様だけだ。
フォウル様が操られる力だからこそ、おれはそれに対する恐怖を感じずに済む。フォウル様がいて下されば、おれはあの力に押し流されずに自分が存在する場所を見付けられる。
そうでなければ、おれはきっと耐えられない。
そして……おれは、この力を求めたが故に消滅してしまった、あいつの名前すら知らなかったのだと漸く気付いて、愕然とした。
「……刹?」
返事のないおれを心配されたのだろう。フォウル様が、名を呼ばれる。
おれは何だか急に、一人だけフォウル様に庇っていただいたり、抱き付いたことが恥ずかしくなって、集まっている注目を外そうと視線を動かした。
「あ、フォウル様、あの、こっちは?」
“ルクティ”としてフォウル様と共に現れた男のことを指して、聞く。
それに反応して視線が──そう、何時だったかフォウル様に見せていただいた──サファイアの双眸が、おれを捉えた。
確かに、その隣に立ったルクティと同じくらいの背格好で、おれは見下ろされる格好になる。
見比べれば、やっぱり似ているようには思わないけれど。
「ん? ああ、自己紹介していいぜ。詩乃」
「はい」
応えて、そいつはおれを、それから後ろに視線を移した。
「遅くなったが……私の名は詩乃 ヴァレス 王蘭。白を継ぐ者だ」
今日は一日色々なことがあった。それも驚かされっぱなしだったな。
おれは思わず、まだ終わっていない一日に思いを馳せてしまった。
「リート、私はお前が無事で嬉しい。大切なライバルがいなくなっては張り合いがなくなるからな」
全然ルクティとは似てないぞ、こいつ。
勝ち気な発言にどう反応しているのかと、リートの方を振り向いて見れば。
「はぁい。宜しくお願いしますね」
何にも分かっていないような顔で、のほほんと挨拶していた。
「それで、帰ってくるなりカイ教師に連れてかれちゃったのね」
黄金色に焼けた巨大なパイを三つ切り分けて、アーデリカはその一つをおれに、一つを横に、一つを自分の前の皿に乗せた。
中身には、リンゴをそのまま数個使っているようだった。
アーデリカがその豪快な自作パイをぱくついているのを前に、おれは意味はないけど、フォークで表面をつついてみる。
それから、ホットミルクの表面に出来る薄い膜を取ってみたり。
と、玄関の扉が開く音がした。
「お帰りなさいませ、フォウル様!」
「おう」
椅子から立ち上がったところで、フォウル様に頭を押さえられてまた座る。
あの後院に帰るなり、待ち構えていた連中にフォウル様を連れて行かれてしまって、ちゃんと助けて頂いたお礼すら出来ていなかった。漸く落ち着いてお話しできると思うと嬉しいけど、多分、また会議とかされてお疲れなのに違いない。
「ん?」
気付かれてしまったのだろう。
「刹。大丈夫だったか? 泣かなかったか?」
「泣いてません」
フォウル様が助けて下さるって、信じてたから。
頭を撫でられて、なんだかくすぐったい。
「フォウル、おつかれさま」
会話の隙を見て、アーデリカが割ってきた。
「労を労ってアップルパイを焼いてあげたわよ」
「お、美味そう!」
おれを挟んで頭上で交わされる会話って、なんだか気に入らない。
そのまま囓りついちゃいそうなフォウル様に、先ずはちゃんとお手を洗って頂いて、一緒におれも手付かずだったパイにフォークを突き立てた。
「んー、美味い! でも、リンゴなんか何時申請してた?」
フォウル様は割と事務方の仕事にも目を通されているから、院に流入している物品は大体ご存じだ。
レイヴ先生が言うところに依ると「“院”は独立した世界空間なのに生産業務に就いている者はいない。だから、活動に協賛してくれる他世界から物品を融通してもらい、生活が出来るわけだ」と言うことらしい。
もっとも、うちは家庭内菜園ってやつを前にフォウル様が初めて──今は、その、お忙しいからあんまりフォウル様は世話されてないけど、ちょっとした野菜を作ってる。
「だって、来たらココにいっぱいあったから。二人だけであんなに食べるの?」
え? 初耳だ。
不思議に思ってフォウル様の方を見ると……。
「あああっ、フォウル様!?」
「ちょ、どうしたのよ、フォウル!」
大の苦手だった熱々ミルクを、どういう訳か一気飲みされてしまったフォウル様は、しきりに噎せながら舌の火傷を訴えられて。
おれたちは、それをお宥めするのにその日の残りを必要としたのだった。
【完】 戻る