変心
レイヴは深い溜息を吐き出した。
彼の鼓膜には先程から部屋の扉を強打する──あれはノックする等と言う生易しい物ではない──音と、それ以上に大きく己の名を呼ぶ声とが繰り返し刺激され、折角広げた書物の文字も脳内には入ってこない問題が生じていた。その上この音は、少なくともこの階の廊下中に響いている事、間違いあるまい。
無視すれば立ち去るだろう等と楽観視した数分前の自分の読みの甘さに、再び堪えきれない溜息が漏れた。
せめてこの場に同室の友人が居てくれれば。……実際には何の足しにもならないだろうが、少しは気が晴れていたかもしれない。
振動に併せてずきずきと頭が痛むものだから、書き上げたかった論述の中身すらおぼつかなくなってくる。
「おい、そろそろ良いだろ。いい加減に開けろよ!」
その声に触発された訳では決してないが、レイヴは意を決すと立ち上がって扉の方へ歩を進めた。途端、それが見えている訳でもないだろうに喧しい声がぴたりと止まったことが忌々しい。
勿論諦めて去ったわけではなく、扉を薄く開けたところでレイヴは自分と同じ顔が満面の笑みを浮かべた事に暗然たる思いを抱いたのだった。
「別に構わなくて良いからさ」
その断り文句を信じるものがいるのだろうか。
だが言った以上には守ってもらおうと、レイヴは招かれざる客を放置して机に向かった。
勿論何か勝手な事をするのではないかと最初は少し伺っていたものの、部屋の隅になるべく目立たないように置いている荷物と格闘を始めたのを見て、興味が失せたのだ。
部屋に置いてある私物は、自らが持ち込んだ大量の書物を除けば殆どががらくただとレイヴは思っている。実際、飽きっぽい同室の友人シィンがなんとなく手に入れては捨てられずに置いてある、無用の長物ばかりである。
元々、他人から思われているほど神経質でない上、自分も物を捨てる事が巧くないものだから、少しばかり散らかっている部屋には早くから諦めが付いた。だからと言って散らかして構わない、とは言わないが……。
長考に入ったレイヴの嗅覚を、ふと香ばしいかおりが刺激した。
振り返って見れば、以前シィンが自炊でもしようと思い付きで持ち込んだコンロに、鍋とフライパンがセットされていた。オリーブオイルの香りが部屋中に立ちこめる。
「……食事なら自分の部屋でしろ」
もっとも、ロアンと彼の同室者の部屋に自炊出来る設備があるのかと言う事実は、これまでレイヴにとって興味のないことだった為に知らない。
ただ、それでも。
他人の部屋に押し掛けてきてやっている事が料理なのかと。そんな事の為に自分の安息を妨げられていると言うのかと。
そう非難するレイヴに、やれやれと言った様子でロアンの方が肩を竦めた。
「なんでオレが自分の為だけにこんな料理作んだよ」
とは言え彼が愛嬌を振りまく女性達への捧げ物にしては、何時になく粗っぽすぎる男の料理。食に拘る訳でもないレイヴがそう断言できるのは、ただオイルをひいて申し訳程度のベ−コンとパスタを炒めたそれが、母の不在時における彼ら兄弟の貧しい夕食だった、そのメニュに他ならない為。
ロアンは今でこそ料理の腕を誇っているが、必要に迫られて始めたばかりの頃に作る物といえば、手間も暇も掛かっていない、ただ食べられるだけと言う代物で。そう言えば繋ぎのないハンバーグ──つまりは只の挽肉の固まりを食べさせられた事もあった。
手元に視線を戻したロアンが言葉を繋げた。
「これはお前の分もあんの」
頼んでもいない事を、と思うとレイヴは眉間に皺が寄るのを感じた。
時間通りに一日三回の食事を採るので充分だ、と彼は考えている。第一不味くはないけれど素朴過ぎるあの味は。
「……いらん」
昔を懐かしく思い出してしまうから嫌いだ。
誘いを一言で断って、レイヴは机に向き直ろうと首を戻しかけた。その動作の途中で、ロアンが盛大な溜息と同時に呆れたような声をあげた。何となく、動きを止めて聞いてしまう。
「馬ぁ鹿、腹減ってるだろ」
言われてみれば、そんな気がしないでもない。
相手はどうやら未だこちらの事が──自身以上に分かっているらしいと見えて、レイヴは一度ペンを持つ指先にぎゅっと力を込めてからそれを抜くと立ち上がった。
食べてやらなければ、解放される事はないのだからと自分に言い聞かせて。
双子というものが総じてそうなのかどうか、それは断定できない事だったが、少なくとも子供時代の彼らはお互いの考えていることも、体調も、我が事のように感じることが出来た。
それが、何時の頃からかレイヴには兄の事がまるで理解出来なくなった。
その現象を大人になること、個になることと思っていたのだが、時折こうしてロアンの様子を伺うと自分だけが相手を感じ取れなくなってしまったのではないかと思わされる。肯定されるのが怖いのだろうか、聞くことも出来ない。自分の気持ちすら計り知れなくて持て余しているこんな自分自身が、レイヴは好きではなかった。
「そこそこ旨いだろ。腹が減ってるのが何よりの調味料だからな」
フォークの先端で上手にパスタを巻き上げた同じ顔の男が、なにを考えているのか。
彼にはやはり分からなかった。
変わってしまったのは、はたしてどちらだったのか。
それとも本当は──
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