幸を望む小鳥

 居心地の悪さを感じて、天麗てんりは椅子の上で身動いだ。
 彼女と向かい合っているのは、同室の少女でも愛しい人の教室に所属する少年でもなく、正直に言ってしまえば余りに風変わりな組み合わせで、通り掛かった者は皆一様に目を見張った。
 もっとも、天麗にはそれに気付いている余裕もなかった。向かいの相手が何やら論じていることすら、彼女の意識には入っていなかったのだから。
 そもそも天麗がこの席に着いたのはほんの偶然だった。通り掛かったところリートに声を掛けられて、勧められるままに腰を下ろし、ところが当のリートが忘れ物をしたとかで席を外してしまった。親しい者がいなくなれば、自然口数も減る。かといってリートがいないからとあからさまに席を立つのも相手に失礼だろうし、また逆に居座り続けるのも気不味い。
 それだから彼女はただひたすらに、リートの帰還を待ち望んでいた。それくらいしか打開策が思い付かなかったのだ。
 溜息が零れた。
「彩天麗」
「は、はい!」
 凛とした声に名を呼ばれ、天麗は背筋を伸ばした。
 跳ね上げるようにして向き直された顔が、真っ直ぐな青の瞳とぶつかる。白金の長い睫に縁取られたその瞳は、天麗の大好きな暖かい色の瞳とはまったく違うけれどもとても美しいもので、自然と見つめてしまう。
 と、先程まで相手の話を聞き流していた事を思い出し、恥ずかしさと罪悪感で頬が赤らんだ。
「なんでしょう……詩乃、さん」
 次第に俯いていった顔の動きにあわせて最後は消え入るような小さな声。
 そう、彼女の前に座っているのは詩乃 ヴァレス 王蘭。リートの新しい同室にして“白”の座を競う現在渦中の人、だった。
 勿論天麗だってそんな事は知っている。何かと目立つ存在だけあって、天麗ですら色々な噂を耳にしているのだ。しかし日頃リートと親しくしている割に、詩乃と言葉を交わすのは今日が初めてだった。
 つまり知っていた、とは言え初対面の相手と話が弾むほど天麗は器用でなく。
 そんな落ち込むように項垂れた天麗に向かって、元凶である詩乃は至極真面目な表情で言い放ったのだった。

「溜息を吐くな。幸せが逃げる!」

 そう言い切られた天麗の方は初め、相手の勢いに飲まれて反射的に顔はあげたものの、どこか茫洋とした表情のまま色違いの双眸を忙しなく瞬かせていた。やがて無意識の内に動いた両手が腹の辺りで堅く組み合わされた。指の先に込められた力で甲が少し白くなる。
 唇が薄く開いて、溜息に似た言葉を零す。
「……逃げますか?」
 そうだとしたら、自分はこれまで幾つの幸せを逃してきたのだろう。
 今は幸せで、でも少し切なくて、でも幸せで。これ以上なんて望んだら欲張りすぎだけれど、けれど──
 その問いを耳にして、詩乃は眼を閉じると大きく呼吸をして見せた。ゆるゆると吐き出された息が一瞬止まって、一瞬の後に空を写し取った瞳がしっかりと開かれた。
「気持ちを落ち着けて、無理にでも笑ってみろ」
 言い放つと同時に唇が弧を描く。実演されたそれは、軽く顎を持ち上げて少し眼を細めた不敵な印象の笑みだったが、とても綺麗な笑顔だった。
「溜息など吐いているよりましな顔になるのは確かだな」
 彼が言ったのは直接の答えではなかったけれど、それで天麗は何かが分かったような気がした。
 それはつまり、笑顔に、本当の笑顔に近付くことこそが。
 詩乃を倣って軽く瞼を閉じた天麗は、片手を胸の上にあて、意識してゆっくりと心を落ち着かせていった。鼓動の一つ一つを手のひら全体が受け止め、そこから小さな動きが全身に伝えられる。
 心が次第に透明になっていくのに併せて、世界の至る所に存在する音が天麗の中に入り込んで来た。遠くから聞こえる人々の、風に揺れる木々の、紺碧の空を舞う鳥の──
「え?」
 頭上を飛んでいた光緋こうひが主人に注意を喚起しようとしてか、鋭い鳴き声をあげた。
 天麗はその声に弾かれるように立ち上がると、誰何の声も何もかも、もう辺りの事は見えずに駆けだした。

 天麗は光緋と言う名の鳥を従えている。ただの鳥ではなく天麗の世界──シリウでは普通忌まれる妖鳥であったが、彼女の言うことに従順な僕で、時として誰よりも彼女を理解する友で、心強い味方。
 だが以前その傍らにいた筈のもう一羽、光青こうせいが姿を消してからだいぶ経つ。迷いの森で姿を消して以来、姿を見たものはいなかった。
 その光青の声が、聞こえたような気がした。
 他の誰にも聞こえた様子はない。けれど天麗の耳には微かであっても確実に聞こえた彼方からの高い一声が、静まった心の水面に一石を投じた。
 光青ともう一度会える。そう思うとただ声の聞こえた方へと歩が進んだ。光緋の方も片割れと再び巡り会えるやも知れぬ期待に、主人に前後しながら慌ただしく飛び回る。
 何時しか一人と一羽は、かつて光青が消えた迷いの森にまで辿り着いていた。
 不用意に踏み込めば抜け出せなくなる迷宮とも言われるこの森だが、既に幾度となく足を運んだことのある天麗は光緋を従えたまま恐れもなく木々の間を駆け抜けた。肩を、腕を、茂みや垂れ下がった枝、背の低い木の葉がすれ違いざま叩いて行く。
 ざわざわと木々たちが声を掛けようとするのも、今はただ遠いことで。
「……あっ」
 蔓に足を取られ、天麗はつんのめるようにして立ち止まった。少し行き過ぎた光緋が慌てて天麗の傍に戻り、ぐるりと頭上を一回りすると翼を畳み込んで肩に降り立った。
 先程まであれ程ざわめいていた森が、しんと静まり返る。
 その沈黙を、天麗は葉の合間から見ることが出来る遠く澄んだ青い空を見上げて堪えた。
 声は、もう聞こえない。
 また何処かへ行ってしまったのか、あるいははじめから幻だったのだろうか。そのどちらとも思い切る事は出来ず、天麗はただ空を臨んで耳を澄ませた。
 少しずつ日常の喧噪を取り戻していく音。その中に、待ち望む声はない。待ち望む声は──
 ざあっと打ち寄せる波のような音を立てると一斉に木の葉が揺れ、天麗の髪を宙にすくって舞わせる。風に髪を弄ばれたまま、天麗はゆっくりと顔の位置を動かすと少し濡れた瞳を閉じた。
 乾いた唇から息が零れ落ちる。

「溜息を吐くなと言っただろうが」

 唐突に聞こえた言葉に、天麗は眼を大きく見開いた。
 そしてその場に、先程断りもなしに置いて来てしまっていた詩乃の姿を認め、その瞳はまた瞬いた。
 決して単一次元で繋がっている訳ではないこの森の中を、彼は追ってきたのだろうか。しかし一体何のために?
 疑問が洪水のように脳裏を埋め尽くし、天麗は言葉を発するという事を忘れた。
 見つめられ、詩乃は器用に片眉を吊り上げる。
「突然走り出せば誰だって気になる! 少しは周りの事も見ろ!」
「あ……ごめんなさい」
 掠れた声ではあったが、ようやく声が出た。微かな謝辞に、けれども彼は文句もなにも言わず、天麗から視線を外すとただ言い訳らしき言葉を連ねている。その耳が微かに朱いことで、ようやく天麗は詩乃が反射的に追ってきてしまった自分に照れているのだと気が付いた。
 軽く瞼を下ろす。
 大きな深呼吸に詩乃が視線を戻した。
 それに向かってしかと眼を合わせると、天麗は微笑みを浮かべた。

 欲張りでも良い。
 幸せを逃がしたくはないから。