それぞれの道

 教室を出たところで良く知った面々と鉢合わせ、アーデリカは声をあげた。それは反射的な物であって大した意味のない行為だったが、彼らの注意を引き付けるには十分過ぎるもので。
「リカはこっちの教室にいたのか」
 そう言って声を掛けてきた人のいい青年に精一杯笑みを返して、彼女は彼が少し退いた扉を覗くような仕草をした。
 本当は向かいに当たるその教室で何の講義をしていたか等、分かり切った事だったけれど。
「院志願者向け? みんな受けてるんだ」
 ああ、と彼、イクスは応えた。勿論、受けている理由は様々だろう。
 真の意味で院に志願すると言うことは、つまり卒業後院生となる事だ。この授業を受けたからと言って院生になる義務が生じる訳ではないが、目指す上では避けて通れないものだった。
 彼女がみんなと言ったのは、彼を含めて最高学年に位置する面々の事だ。当然全員が教室長で、それぞれに秀でた部分を持つ彼らが一堂に会している様子を他の学生達が興味深そうに視線を投げかけていった。
 と、軽やかな羽音がしたかと思うと小さな顔がアーデリカを覗き込んだ。リカルド教室の教室長であるオムクだ。
「アーデリカこそ、採らなくて良いの?」
 本来彼女は彼らの同期生であり、またこの講義が上級進級してから三期経過した学生に対して開かれている事を考えれば、彼女が参加していても奇怪しくない。院では履修済み講義を再履修することも許可されている為、イクスなどはどういう訳か随分早くから参加しており、これで三度目の受講になる筈だった。
 一方のアーデリカに受講経験はない。
「うん……まぁ、来期もあるしね」
 大体赤ん坊の大きさだな、と頭の片隅で考えながらオムクの頬に触れる。彼はくすぐったそうに笑うとその指を避けて移動した。その際背中の蝶々に似た羽が動くことはなかったが、そもそも彼はあんな装飾で飛んでいる訳ではない。
 友人の背中を見送りつつ、何と言う事もない考えに落ち込みかけた思考回路を引っ張り出したのは、きっぱりとした女性の声だった。
「あんまり悠長な事は考えない方が良いわよ」
 一瞬立ち止まってアーデリカの言い分を聞いていたアイヴィBが、髪の毛とそれにまとわりつく蔦の葉を掻き上げながら言った。不本意ながら一学年下に落とされた彼女なりの忠告なのだろう、と思うとアーデリカは素直に頷いたが、その拍子に堪えていた溜息が漏れた。
 日頃はさほど目敏くもない癖に他人の不調には敏感な連中だ、と知っていて犯してしまった失態だった。
「リカ、具合でも悪いのかい?」
 案の定サルゴンが尋ねてくる。決して性格は悪くないのだが、彼は人の事に土足で踏み込んでくる厚顔な面がある──とは、真理が何時か言っていた通りだった。それが他人に対して発揮されている時は気にならないが、正直面倒だな、とアーデリカは思った。
 もう一人、こういう時に面倒な相手であるイクスは、一度女にはそれなりの都合があるのだと一喝してやって以来、彼女の体調を気遣う際には慎重を期すようになっていた為、幾らか眉根を寄せて様子を伺っている段階だ。
 このところ具合が悪いのは事実だった。けれども彼女にはそれを表に出したくない自尊心と言う物があって、だからこそ不調に感づくだろう同期生達と顔を付き合わせたくなかったのだ。
 それも、よりによってこの教室の前で。
 軽い鬱的気分を自覚した彼女へ、けれども救いの手は差し伸べられた。
「そうだリカ、この後暇なら付き合って欲しいんだけど」
 何事か思い出したと言う感じの声音でそう言ったのは、サルゴンの後ろから青白い顔を覗かせた風祭真理だった。目元を隠した前髪のせいで表情があやふやな彼は、その口元に薄い笑みを乗せている事だけが判別できる。
 それに対して異議を唱えたのはアイヴィだった。
「でも疲れているんでしょ」
 緑色の葉が左右に揺れる。そう言う時は休みなさいと続けた彼女は、別に過保護なわけでない。むしろ他人の調子を伺えるほど細やかな気配りを持っていないのだ。だから不調だと聞けば、それの程度は確かめもせず休息を勧める。
 逆に言えば、大丈夫だと言っている限り彼女だけは欺くことが出来る。
 それを知っているが故にアーデリカは明るい声を出した。
「大丈夫よ。なに?」
 顔を向けると真理は小さく頷くような動作をして廊下の先を示した。
「良いんだったら移動しよう」
「そうね」
 同意して、アーデリカは荷物を持たない手を肩の辺りに持ち上げると友人たちに軽く振ってやった。
「それじゃ、またね」
 イクスとサルゴンは少しばかり御節介だけれど、悪い奴でない。彼女の決意を翻させようとする労力の無意味さも良く知っている。オムクは出会った頃からアーデリカに懐いて信頼してくれているから、やはり邪魔をする事がない。アイヴィだけは交友が少なかったせいもあって計り知れない所があったが、元々自分が関わらない事柄には関心の薄い性格をしている。
 だから立ち話は此処までだとアーデリカが微笑んでやると、彼等はそれ以上何か言い募ることもなく。
「ああ、また」
 短い別れの挨拶を交わして、学内でも有数の能力者たちは各々の行き先に向き直った。

「で、なぁに?」
 問いながら、薬学室独特の臭いにアーデリカは顔を顰めた。原因は乾燥させた草──生草の殆どは温室で栽培している──や獣の牙、毛皮等のそれだ。
「なにがだい」
 どこか面白がっているのではないかと詰め寄りたい調子で真理がゆっくりと聞き返してきた。その手元で薬効があるのだろう蒸気が立ち上る。
 隣の救護室で保管する薬の各種はここで煎じられる。治療に使った分は万一に備えて常時補給しておくように、とするホリィ教師の言い付けで、教室長たる彼もこの部屋を利用する事は多い。一方、ホリィ教室か救護室関係者が使用していない時は、訪れる者がない絶好の密談場だった。
 そんな所に連れてきておきながら、何も言い出そうとしない真理の様子に腹を立てたとて文句はあるまい、とアーデリカは思う。
「話よ。何かあるんでしょ」
 薬草や鉱石が収められている棚を木箱、麻袋、瓶、とひとつずつ視線を動かす。効能別に丁寧に分類されているのだろうが、目に見える範囲だけでも余りに膨大な数で、アーデリカには殆ど理解できなかった。
 真理は素知らぬ顔を続けたまま、仕上げに干涸らびた木の根のような物を鉄鍋に入れる。中身を杓で軽く混ぜる動作の後、彼は肩を竦めて見せた。
「僕は話があるなんて言ってないよ。暇なら付き合って欲しいとは言ったけどね」
「マリー、屁理屈してないで、真面目に──」
 言葉を遮ったのは、机上に薬品の入った瓶が置かれた音だった。決して強くない力でされた筈のそれが何故か酷く響いて聞こえた気がして、アーデリカは反射的に口を噤んだ。
「話があるのは君の方だろう」
 ぐつぐつと煮える音を背にして、静かに真理は微笑んだ。
 白い前髪を持ち上げた右手の下で、相変わらず細い眼がアーデリカの方を向いていた。外界が見えているのか甚だ不思議であったがそれは常のことだ。
「僕はほかの連中より事情に詳しいし、何より愚痴を言い易い相手だと思うけど」
 余り大した話ではない、とでも言いたそうに真理は穏やかな表情を変えなかった。
「意外と口も堅いしね」
 それに併せてアーデリカも軽口を叩く。
 それらは事実でもあった。エファでもイクスでも、皆気心知れた友人であるけれど──否、だからこそ一線引いておきたい、或いは引いておくべきだと思う事がある。
 親しいからこそ言えない言葉は、ある。
 それは半分くらい見栄なのだとアーデリカは思う。人の相談事は請けたがるのに自分は出来ないと言う事の理由は、それが大部分だろう。それでも真っ直ぐに前を向いて進む自分でありたかった。
「でもね、悩み事とかって相談する意味はあるのかしら」
 栗色の髪を揺らして首を傾げてみるが、彼は黙って聞き続ける姿勢を崩さない。
「……どっちにしろ、自分の事でしょう?」
 決断も行動も、結局は自分しか出来ない物なのだから。
 だが真理は彼女の考えに肯定の笑みを返しながらも、緩く首を振った。
「リカ、僕は君に相談して貰えるような人格者じゃないよ。愚痴を聞くだけだ」
「そうね」
 少なくとも彼が人格者でないことは、彼女にとって頷くところだった。とは言えその部分にだけ頷いたわけでもない。
 アーデリカの幼い矜持が守られる提案だったから、了承したのだ。
 今からするのは相談ではない、ただの独り言なのだと思えば語ることが出来る。愚痴と言う言われ様だけは少し気に障ったが、無視しても構うまい。そしてそれを許してくれるのが風祭真理だった。
 彼は優しい。そう言えばきっと驚く者も多いだろうが、彼は優しかった。
 ただし、甘くはないけれど。
「ねぇ……わたし、院生になってる暇、あるのかな」
 背後にした棚へ軽くもたれ掛かると、薬品類を納めた瓶が押されてがちゃがちゃと耳障りな音を立てた。まさかその音に掻き消されて聞いていないと言う事は有り得ないけれど、真理はアーデリカの言葉は無視してただ見つめ返すだけ。
 しかし独り言としてはそれ以上の言葉が出てこなかった。そのまま内的世界へと埋没していきそうな自身を救うため、アーデリカは少しだけ気を変えて、彼の発言を認める事にした。
「アエネラ様のお加減、どう思う?」
 今度は明らかな疑問符を伴って口にした言葉の意味を、真理は的確に理解したようだった。
「良くはないね」
 彼は初めて同意を返した。
 しかしそれから一度だけ背後の鍋を確認して、後は口を噤んでしまったのを見て、アーデリカは苛立ちを隠さずに眼を吊り上げた。棚から背を離し、前方の些か低い机に肘と腹の辺りを乗せる。前のめりになったその姿勢のまま足を動かすと、さすがに器物破損の危機を覚えたのか真理の笑みが苦い風になった。その事をまた腹立たしく思って、アーデリカは両手で机を叩いた。
 猫の砂掛けのようだと思われていた等、勿論彼女に分かるわけがない。
「分かるんでしょ。わたしの役に立つつもりなら答えなさいよ」
 随分と身勝手な事を言っている自覚はある。しかし後者についてはそんな事は言っていないと否定されそうだったが、彼に現姫の調子が“分かる”と言う事実は否定出来ない筈だった。
 彼は死の匂いに敏感だ。
「長くないことしか」
 一瞬細い眼が更に伏せられる。それから次の言葉を紡ぐ僅かな間に、再び笑みを刻み込む。
「僕には分からないよ」
 真理は結局それ以上この件について言及しようとせず、明確な答えを返すことはなかったけれど、その表情が物語った言葉をアーデリカは確実に聞いた。真理の背後にある鍋から漂ってきた不思議と爽やかな香りが、会話をなくした二人の間を埋めていく。
 世界を駆ける騎士と言うべき院生に憧れていた少女は、しかし守ろうとしていた世界からただ一人の姫として選出された。望んでも得られる地位でない。しかし望んでいなかった事も事実だった。
 それでも当代の姫が健在であれば、未だ希望は残っていたと言うのに。
 そこまで考えてふと、自分の性格も悪くなったものだ、とアーデリカは自嘲した。ただ自分の夢のために生き続けて欲しいと願っている。そんな身勝手な人間は騎士としても相応しくないに違いない。
 やがて静かな声が問い掛けた。
「それで、諦めたのかい?」
「……諦めてなんかないわ。でも……もう、無理なのかなって」
 次第に視線が下がり、アーデリカは平らな机の表面をじっと見つめた。自分の昏い影がぼんやりとした形を作り、耳横を流れた栗髪が視界を狭める。
 大丈夫だとか、そんな事言わずに頑張って、等と彼は言わない。事実、その後彼がした事と言えば、火を止めて鍋の蓋をしただけだった。

 寮までの道は長くない。
 色とりどりの花が咲き誇る中、肩を並べて歩きながら、二人は友人たちの進路を肴に話を続けていた。
「サルゴンは悩んでたよ。まぁセララちゃんの事もあるし、残るだろうけどね」
 恐らく最も親しい友人だろう青年の動向を、真理は簡単にこう言った。それは彼が年下の恋人に心底惚れ込んでいる事実を考えれば容易く行き着く想像なのだ。それゆえアーデリカも軽く頷きだけを返し、持て余した沈黙に対しては掌の中に収めた小瓶を一回転させてやり過ごした。中身は先程真理が作っていた薬湯で、有り体に言えば精神安定剤だと言う話だった。もっともその台詞が冗談なのか本気なのかは読み取れなかったのだが。
 ふと、軽快な挨拶と共にすれ違う後輩の少年たちに反射的に笑みを向ける。そんなアーデリカの表情を見やって、真理は言葉を続けた。
「イクスは帰る」
「でしょうね」
 彼の夢は、院ではなく故郷にこそ存在するのだと本人が語っていたのだから。初めに心に決めた夢を何時までも追い続けられる彼が羨ましい、とアーデリカは素直に思ったが、言葉にはしなかった。
「アイヴィは残る方に傾いているけど、例の件もあったから心中はどうかな」
 どれだけ人の進む道を聞いたとしても、それは所詮他人の道だ。
 続けるように促しながら、しかしアーデリカはその言葉と裏腹に殆どを聞き流していた。彼女の興味が薄い事は分かるのだろう。真理も至極簡潔に言葉を繋いだ。
「オムクは判らない。あれで自分の事は話さない奴だからね」
 向かい合うように建つ両寮の丁度真ん中で、二人はどちらからともなく足を止めた。己の寮に戻るならばこの道で別れねばならない為だ。折からの優しい風に栗色の髪が攫われかける。それを押さえる風にして、アーデリカは自然な流れで友人に顔を向けた。
「マリーは?」
 自分の事を話さないと言うならば、こちらの青年もそうだった。
 今よりもっと若かった──と言うよりも幼かった頃はそれが元で口論になった事もあったが、結局のところ、彼は聞かれない限り答えないと言う性格の持ち主なのだ。
 太陽の光の下では一層病的に冷え冷えと見える白い頬が笑った。
「……君が残るなら、残ろうか」
 奇妙な言い回しをする、とアーデリカは不審に顔を顰めた。
 彼、風祭真理は決して主体性のない男でない。第三者の行動に因って自らの未来を決定付ける等という思考回路はしていない筈であったし、何よりの前提条件が奇怪だった。
 アーデリカの行く末は、院の騎士か、院の姫か。
「私が残るならって」
「また新しい選択肢を増やして悪いけどね」
 その事を質そうと開いた口は、しかし真理によって遮られた。細い眼が、一瞬更に細められたように見える。
「院なんか出たって構わないと思うよ」
 片手に収まる小さな存在だと思っていた小瓶が、突然自己主張を始めた事をアーデリカは感じた。
 彼女が未だ答えを導き出せないのは、義務や責任感で姫になるわけにはいかないと思っている一方、しかしそれらを放り出して良いものでもないと思っている、その相反する考えに囚われている為である。それはアーデリカ自身にも良く分かっている事だ。
 その中に一石を投じる、院に残るのか否かと言う問い。
 三番目の選択肢、否、一番初めに考えるべき案件がそれなのだろう。しかし元々騎士を目指しており、且つ在学中に次代の姫として内定を受けたアーデリカにとって、それは頭の中の何処を探しても出てこない提案だったのだ。友人たちが院に残るか否かと言う選択から始めているのとは逆の事だろう。確かに迂闊だった。
 それでも。
「──それは、ないわ」
 やがて優美な唇から零れ落ちたその言葉の思いは果たして何処にあるのか、彼女にはよく分からなくなったけれども。
「それはないわ、マリー」
 もう一度繰り返した端から抱くのは、院から、そして此処で共に在る人たちから離れるには、少しばかり依存し過ぎてしまったのではないかと言う懸念。
 揺らめいたのは、美貌に不似合いな自嘲めいた陰だった。