勝敗

 低い唸り声を発しながら、フォウルは猫のそれに酷似したきつい瞳で盤上を睨み付けた。
「諦めの悪い野郎だな」
 真向かいの席に腰を下ろした男は、呆れと侮蔑とでその様子を評した。
 手元に残った駒の一つを指先で立ち上げ、それをまた爪先で倒す。
「勝ち方しか考えてないのかよ」
 どこまで手を進めても負けを認めないフォウルのやり方に何時までも付き合わされては堪らない、と男は大袈裟に肩を下ろした。長い前髪が力無く垂れ下がる。
 日頃院の深部に籠もって暮らしている彼にとって、古い友と過ごす時間は決して悪いものでないけれど、それを素直に認める事は出来ない間柄である事もまた事実であった。
「お前はいっぺん負けた方が良い」
 そうだ、負けてしまえ。
 濃緑色の視線にそんな念を込めて送った瞬間、盤上に向いていたフォウルの顔が勢いよく持ち上がった。
 セトナ、と彼の名を呼んで。
「負けたじゃないか」
 初めの数秒間、彼にはその言葉の指す意味が分からなかった。あまりに簡潔に、何でもない事のように口にされたせいだ。
 理解に至った瞬間、セトナは顔が歪むのを止められなかった。
 それは彼らの間で禁忌となっている出来事だと彼は、少なくとも彼だけは思っていた。
 例えば同じ記憶を共有する他の極少ない者たちがこの話を持ち出したとしても、それは構うまい。現実としては知らぬ者たちが口にするのも許そう。しかしフォウルの方から、セトナに対してこの話を振ってくるとは──夢にも思わなかったのだ。
 相手に与えた衝撃は分かっているのだろうに、フォウルの言葉はどこまでいっても淡泊で、明るいとすら言える調子だった。
「あれ以来、オレは負け方ばっかり考えてる」
 それは院最高位の騎士、オナー・ホワイトと呼ばれるフォウルに相応しくない台詞であったが、きっと事実に違いない。けれど聞かされたくもない事実だった。
「それに、オレは」
 いっそ耳を塞ごうか、とセトナは思った。
 彼の思いを無視して、フォウルは言葉をつなげた。
「あきらめた事もあるんだ」
 再び俯き加減になったフォウルの旋毛を眺め、暫くして彼はその言葉が諦めの悪い……と言う自分の言葉に対しての発言だと気が付いた。
 自身の常にない反応の鈍さは、フォウルがそうであるほど、セトナが平静でいられなかった証拠のようで、彼は胸に詰まる酷い吐き気のような感情を覚えた。
 勿論、最後の魂が消滅するまで永遠に割り切ることなどない。
 そして自分は永遠に彼を責め続けるだろう。
「何を」
 思っていたよりも普通の声が出た。その事に安心と、安心した事に対する複雑な反発とがまたセトナの表情を歪めた。
 フォウルが唇の端を大きく引き延ばす。
「あきらめられないって事を、あきらめたぜ」
 自慢げに昂然と持ち上がった彼の顎の辺りを呆然とする思いで見つめ、しかし今度は間髪入れず口が動いた。
「……それは諦めたんじゃねぇ、自分の阿呆さ加減を認めただけだろうが」
「おおっ!」
 態とらしい感心の声を上げ、そのまま笑い転げたフォウルをじっとりと睨み付けた後、セトナはそのまま視線を下げた。
 その瞬間、彼の脳内を支配したのは沈黙だった。
 盤の上に並んだ平たい駒の配置に、この日一番の衝撃が走る。
「ちょっと待て、なんで盤が動いてんだ!」
 何時の間に動かされていたのか、形勢が逆転した盤上の戦い。途端に分からなくなった勝敗の行方に、セトナは苦々しい思いを吐き出した。
「やっぱ勝ち方に拘ってるんじゃねぇか」
 どんな局面でも、彼は勝ち抜くことだけを考えている。負け方を気にする等という殊勝な精神は持ち合わせていない。
 けれどもセトナのその考えを否定して、フォウルは底抜けに明るい笑みを浮かべた。
「良い負け方が思い付かなかったからな」