この世界の果てまで
我々ドラゴンハーツの移動する居城、竜船が帆を揚げた。
子分共は久方ぶりの『世界の風』に身体中の細胞がざわざわと蠢き出すような興奮状態に陥っていて、使い物にならない。
私カッツェは、その衝動を自制すると我が主へ向き直った。
「ヴァイグーン様、離陸完了です」
主は鷹揚に頷かれる。ここ暫く眼にすることが叶わなかった、ブリッジで翼を広げられた主の姿がそこにあると言うだけで、なんと安心できるものか。
「37度の方向に前進。追っ手に注意しろ」
「了解」
それを子分共にも伝えて、ふと私は急速に遠ざかる大地を眼に感じていた思いを漏らした。
「追っ手は……来るのでしょうか」
不思議そうな色の双眸に、私の姿が映し込まれた。
「あぁ? そりゃそうだろ」
我ながら、なんと馬鹿なことを口走ったものか。
自分たちは奴等にとって追うべき対象。その事実と、先刻までその、いわば敵地に寄港していたと言う二つの事実が、私を一瞬惑わせたのだ。
竜船──“院”を覗けば恐らく唯一だろう、『世界』間を航海可能な船。奴等にしてみれば、自分たちの管轄内におきたいところ。
「馬鹿な事を言いました。申し訳ありません」
「そりゃどうも」
謝辞に対するものとしては中途半端な応え。ヴァイグーン様はもう少し言葉を勉強された方が宜しいのかもしれないが……。
差し出がましい。しかし注意すべきか。
迷った私の視線が、ふとヴァイグーン様の首元に下げられた見慣れないペンダントを捉えた。
そう言えば、主はあれ程嫌っていらっしゃった“院”に寄港した、その目的は果たされたのだろうか。まさかあのペンダントが──? 確かに美しい石で出来ているが、ヴァイグーン様がわざわざ求められる至宝とも思えない。
海賊という稼業柄か元々の性格か、ヴァイグーン様は自分が気に入った宝を貯め込む。しかしそれは「ご自身の」趣向に合ったものだから、それこそ望むだけ手に入る貴石や貴金属には飽き飽きしていらっしゃって、とうてい目もくれない。
やはり、知りたい。
好奇心は猫をも殺すと言うが、この知りたがりの癖ゆえ主から猫と名付けられた私だ。聞かずしてどうする。
「ヴァイグーン様、お求めの至宝はございましたか?」
けぶれる花の香が立ちこめるその場を後にした。何の気負いもない筈が、いつもより確実に足早なテンポで足音が響き、直ぐあれほど強烈だった香りが薄れていく。
昇りかけの朝日が顔を覗かせた一角で、ヴァイグーンは立ち止まると己の肩に鼻を寄せた。あれだけの芳香だけに、焚きしめたように衣服に染み付いていやしないかと思った。鼻を一瞬だけくすぐった香りは、しかし朝の空気に溶けていったようだった。
それもまた、幻想か。
「ふわぁぁあ」
唐突に聞こえた盛大な欠伸が、場の雰囲気を瓦解させた。
血相を変えて振り返ったヴァイグーンの視界に、いつどのようにして現れたのか、この院と言う機関で最高位の騎士である男。その背中で彼が育てていると言う幼子が眠っていたが、欠伸は男の方が発したものだった。
子供が子供を育てているようなものだ。
「行くのか?」
そう言って、白の称号を持つ男は惚れ惚れするほど男らしい、それでいて邪気のない笑顔を見せた。
けれどもその問いかけの持つ重みは、決して軽くない。
「……ああ」
追われるものと、追うものの関係。
「そっか。ま、頑張れ」
「……あぁ?」
やけに簡単に返され、ヴァイグーンは拍子抜けした想いで眉間を歪めた。
「おめぇは“白”だろうが」
自分にやれ竜船を降りろ、騎士になれと命令する院の最高司令官の一人が、そんな事を言っていいのか。ヴァイグーンの方が気を遣って気にしてやる素振りに、白き男は笑い声を響かせた。
拍子にずり落ちかけた子供を背負い直し、三毛の混じった髪を揺らす。
「お前、アエネラを見てただろ」
唐突に出てきた名前に、肩がぴくりと揺れる。
誰にとっても“院の姫”である彼女は、しかしそうである前に“アエネラ”と言う一人の人間ではないのかと。啖呵を切ったのは確かにヴァイグーン自身で。
「だから、オレも“ヴァイ”を見る。そしたらお前の翼は切れないさ」
束縛しはしない。殊更事も無げに紡がれたその言葉が指す意に、ヴァイグーンは切れ長の眼を閉じると再びきびすを返し、彼の船へ向かった。
ふと。
「でも“姫”が望めば──“院の敵”は斬る」
調子だけでも豊かな表情が分かる声音。それが消失した声だけが話しているのが聞こえ、ヴァイグーンは足をぎくしゃくと止めるとまた動き始めた。その背中を彼の名を呼ぶ声が追ってくる。
「ヴァイ、いい航海を!」
先のものを錯覚かと思わせる大きな声。
あの、人を惹き付ける笑みを浮かべているのだと、容易く想像出来る。
「……くそったれ」
まだ気付いていない他の者の注意まで引いてしまうではないか。尚も追ってくる声に、忌々しく吐き捨てる。
「……院の騎士なんぞ糞食らえ、だ」
この台詞も言い厭きた。
ヴァイグーン様は暫くの間返答に迷われたようだった。眉間に皺を寄せた表情で、唸り声をあげられた。
……まずい事を聞いたのかも知れない。
やはり好奇心など出すのではなかった!
「あ、あの──!」
「あったんだけどな」
先に謝ってしまおうか。そう思って声を掛けかけた私には気付かず、ヴァイグーン様が呟かれた。
では、至宝はあったと?
「盗まないで来た」
何故か……ヴァイグーン様は何処かここではない別の場所をご覧になっていらっしゃるようだった。しかしそう思った瞬間、その顔が真っ直ぐ私に向かれる。
「ま、オレ様の物だって言ってきたしよ。その内ちゃんと取りに行くから、今回は様子見だったって奴だな」
それはつまり、また院に寄港すると言うことですか。また……あの騎士共と顔を会わせるわけですか。
どうにも苦手だった奴らの最高位の騎士とやらの顔が不意に浮かんで、私はぶんぶんと首を振った。それを主に訝しがられるより早く。
「おやび〜ん、なんかでっかい『世界』が見えてきやした〜」
見張りをしていた子分の声に、ヴァイグーン様は立ち上がられると船首に立たれて満足そうな笑顔を浮かべられた。
「よし。着陸準備」
「アイサー!」
元気な返事が、わっと沸く。
そしてまた……あの石を掴む手。
「院で積もった憂さを晴らすぞ、カッツェ」
……ひょっとすると主も、あの騎士には色々とからかわれたのかも知れない。人好きのする笑顔で傍迷惑ばかり押し付けてきたあの騎士と主では、正に両雄並び立たずと言うべきか、同族嫌悪と言うべきか。
取り敢えず「憂さを晴らす」のがお望みならば従うのが副官たる私の務め。そしてまた何時の日か、かの地へと向かうならば、その準備をしておくべきか。
もっとも、私はこう答えるだけだ。
「了解、ヴァイグーン様」
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