天の響

10:神託

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 叫びにも似た呼び掛けは、聖堂の透明な空気を切り裂き天使の動きを止めた。
 コレットの肩がふぅっと吸い込んだ息で持ち上がる。
「お待ち下さい」
 改められた言葉の調子は先刻より落ち着いていたが、緊張の為か常になく早く、芯が震えていた。神託を受けたその時より臆するべき畏れがあると言うのか、見守るロイドには不思議だった。
「レミエルさまに伺いたいことがあります」
 天使は静かな視線で神子を見下ろしていた。静かな、静かな、動かぬ水面で。
「レミエルさまは、本当に、私の……」
 その声は余りに小さく沈んで、最後まで聞き取る事が出来なかった。けれど天使は彼女の声を聞き届けたのか、光の中で確かに笑んだようだった。
 折しも天からの光は温かな色を濃くし、真白い姿を黄金に縁取る。
「まずは火の封印だ。よいな、最愛の娘コレットよ」
 初め、ロイドにはそれが何を意味するのか分からなかった。ただジーニアスの息を飲む音と、これまで微動だにしなかったクラトスが背後で微かに動いたこと、そして、コレットの唇から零れ落ちた言葉が。
「お父さま……」
 ロイドは瞠目した。
 脳裏を、幼馴染みを見守る温かい眼差しが過ぎる。
「やはりレミエルさまが、私の本当のお父さまなのですね」
 天使は問いにはやはり確かな応えを返さなかったが、黙することこそが答えであるようだった。
「次の封印でまた会おう」
 もうその姿は光の中へと溶けていて、光の向こうから声がするのか、それとも光が声であるのかすら判別出来なくなっていたが、コレットの瞳はただ真っ直ぐに、父と呼んだ天使の姿を追っていた。
 空気が薄く笑む。
「我が娘よ」
 ――そして、伝承に伝わる刻は終わりを告げた。
 鮮烈な光は去り、今は窓から射し込む陽が祭壇に長い影を落としている。その上に一片の白い羽根が揺れ落ち、瞬きの間に掻き消えた。
 天使の痕跡など何処にもありはしない。神子の誕生を表す救いの塔と、その証の他には。
「コレット」
 呼び掛けに振り返って嬉しそうに頷いた彼女は、何時もの通りのコレットだった。伝説の勇者ミトスや、教典にあるかつての神子達のような神々しさなんてない、けれど大切な幼馴染み。
 僅かな距離を駆け寄り近付いたジーニアスが両手を広げた。
「凄かったね!」
 神託と、本物の天使と、その奇蹟と。世界再生と言う旅の始まりでしかない事は分かっていても、シルヴァラントに長らく絶えていた天の祝福が再び与えられた喜びが、その指先にまで通っている。
 笑みは伝播し、自然、三対の視線はコレットの胸元に落とされた。
 神子の証、クルシスの輝石。
 初めからそこに在ることが定められていたように、輝石は広く開いたコレットの胸、すっきりとした首筋の真下に吸い付いていた。細い細工がそれを飾る。金の薄板が描く緩やかな曲線は優美な動きで彼女の首に回されていた。
 その輝きはやはり。
「星みたいだよな」
 言った言葉のらしくなさにロイドは自分で頬を染めたが、コレットは何時もと変わらぬ笑顔を浮かべて微笑んだ。
「じゃあ、これはお父さまが選んでくれたんだね」
 胸元の星が、紅く輝く。
「きっと、この美しさでもう一度天に戻れますようにって」
 とすれば空に昇る星の光で女神は目を覚ますのか。その目覚めはきっと穏やかで満ちたものとなるだろう。
 そして世界は再生される。
「神託は済んだようだな」
 うたた寝のような空気を破ったのは、それまで口を噤んでいたクラトスだった。その腕から振るわれる白刃にも似た鋭さで、祭壇の雰囲気が切り裂かれる。
「行くぞ」
「はい」
 応えながら、コレットはもう一度天井を仰ぎ見た。つられてロイドも倣う。
 湾曲したその形について、地上から組み上げる術はやはり思い浮かばなかった。しかし天使には翼がある。ならば天の世界で使う椀を聖堂の上に乗せたのかも知れない。世界中を見守るほど偉大な女神なのだから、きっと使う椀もこんなに大きいのだろう。
 視線を戻すと、少女は傭兵の背に従い階段を降りて行くところだった。
 遅れてジーニアスが潜めた声で言った。
「あのウワサ、本当だったんだね」
 聞き返そうとして、何を指すのか気が付いた。
 神子たるコレットは人の子でない、天使の子だと村人たちが言うのを、ロイドも聞いた事がある。マナの血族フランク・ブルーネルの子として育てられてはいるけれど、真実血の繋がった親子でないと。
 けれどコレットは確かにフランク小父の娘でもあろう。二人の間に通う家族としての絆、愛は疑うものでない。
「血が繋がってなくても、親父は親父だと思うけどな」
 それは誰よりロイド自身が知っている事だった。ゆえに銀の睫毛が伏せられる。
「ごめん」
「ばーか。変な気をつかうなって」
 ロイドは言い捨てると、肩を竦めたまま、先刻必死に登り、今また神子と傭兵とが通って行った階段を二つ飛ばしで駆け下りた。