天の響

14:真実

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「お逃げなさい、早く!」
 マーブルは素早く背を向けると、近付く兵士からロイドたちを隠すように胸を張った。老いたその背は先程まであんなに小さかったと言うのに、今は大きく二人を守っていた。
 檻の中で飼われる老婆の身を考えれば、危険な反抗だ。それでも二人と村のことを考え促してくれた優しさに、ロイドは一瞬拳を固め、彼女の背に頷いた。
「ありがと、ばーちゃん」
「マーブルさん、ごめん!」
 小声でそう言うと、まずロイドが、続けてジーニアスも柵から程近い茂みの中に飛び込んだ。このまま山道まで走ろうにも、警戒が強められた今では途中の道で気付かれる。ならばひとまず身を隠し、ディザイアンらが立ち去ってから改めて逃げれば良い。
 言葉なく二人の意思が通じたのは、日頃の悪い遊びの経験から得た賜物だった。もっとも、今日のこれは他愛ない悪戯の域など越えていたが――
 だが思惑通り茂みを出ていくことは出来なかった。マーブルの態度に不満を抱いたらしいディザイアンたちが、口汚い言葉を浴びせたかと思うと、鋭く打ち付ける音を鳴らし始めたのだ。何度も、何度も。合間に弱々しい呻き声が上がって、鞭が振るわれているのだと分かった。
 マーブルが戦っている。自分たちの為に!
 不自然な力を掛け噛み合わされた奥歯が悲鳴を上げ、ロイドはそれを解放するただ一つの手段を取る事にした。
「やっぱり助けよう」
 幼さの残る大きな瞳が見開かれる。
「どうやって!」
 だがそう言うジーニアスの手も、飛び出す身体を抑えるため強く結ばれ震えているのだ。
 何時だったか、頭は空気で動いているんだと聞いた言葉を思い出し、深く呼吸をして、ロイドはない智恵を絞り考えた。一番重要なのは戦わない事だ。目的はマーブルを救う事で、ディザイアンに力で勝つことではないのだから、場を混乱させられれば良い。
「よし、お前はここから魔法でディザイアンを攻撃しろ」
 え、と跳ね上がった声は、鞭の音で掻き消された。
「そんなことしていいの!?」
 本当はロイドだって恐ろしい。聖堂に現れたディザイアン相手にまるで無力だった自分を知るが故に、この震えが憤懣なのか恐怖なのか、本当は分かりもしない。
 跳ね上がる心の臓を落ち着けようと、ロイドは瞳を閉じ言い切った。
「いいの!」
 強く振った頭の動きに従い、葉が乾いた音を立てる。
「お前はそのまま、茂みに隠れながら村へ逃げるんだ」
 なにも見渡す限りの広野と言うわけでない。整地された牧場の脇さえ抜ければ、後は獣道を通って麓まで駆け下りれば良かった。この辺りの緑にはこのところ枯れた色が目立ってきているが、子供の身を隠す役には充分立つ。
「その間は俺がおとりになって、奴らの目を誤魔化す」
 ましてや、他に目を惹くものがあれば。
 作戦をじっと聞いていたジーニアスの表情が曇った。空色の睫毛が伏され、頬に長い影が落ちる。
「それじゃあロイドが危ないよ」
 魔術を使った後はただ隠れ逃げるだけで済む己と違い過ぎる、と彼は俯いた。
「大丈夫。顔を見られないように崖を降りて、そのまま村とは違う方向へ逃げるからさ」
 ロイドには勝算があった。左手に宿したエクスフィアは何時だって望みのままに力を与えてくれたし、足の速さは中でも一番自信があることだ。勿論、ノイシュには劣るけれど、自分だって四本足があればいい勝負だろう。
 少年の逡巡した唇が小さく動いた。
「――でも」
「急いで逃げれば分かりゃしない」
 被せるように言ったが応えはなかった。
 次第に聞こえなくなるマーブルの声に少しばかり気が急いて、強く言い過ぎたかも知れぬ。思ったロイドは、思案の末こう打診した。
「なら、また宿題、代わりにやってくれよ」
 その言葉に、ジーニアスが顔を上げ立ち上がった。真っ直ぐに向けられた瞳には、静かに瞬く夜明けの空に似た光が宿っていた。
「……わかった!」
 自分たちの関係は五分。だからこの取り決めで丁度良い。
 人間牧場へ向き直り、剣玉を持たぬまま腕で拍を取り始めたジーニアスは、けれどその呪を解く言葉の代わりに、一言呟いた。
「ロイド、ありがとう」
 まだ何も、始まってもいない。だと言うのに彼は、友を助けようと言う心に礼を言う。
 幾ばくかの照れ臭さと誇りで、ロイドは頬が緩むのを感じた。
「バーカ、良いんだよ」
 脅えは既に去っていた。代わって心から沸き上がる覇気は全身に伝播し、呼応するようにエクスフィアに力強い光が宿る。
 二人は、静かに茂みの合間から牧場の様子を窺った。
 三人ものディザイアンがマーブルを打ち付けている。老婆の背は既に力を失い、半ばまで崩れ落ちていると言うのに。
 ジーニアスがマナを揺り動かす術の言葉を紡いだ。無から生み出された炎は狙い違わず柵を越え、ディザイアンの一人の背を燃す。耐え続けたマーブルとは比べ物にならぬ情けない悲鳴が上がり、鞭を落とした。
「よし」
 ロイドは大きく跳躍し茂みを飛び出した。わざと大きな動作で首元に巻いた白布を広げるように走る。
「あいつだ! 正門を開けろ!」
 背中が聞いた指示の声に、ロイドは内心で大きく喝采した。身の丈に釣り合わぬ巨大な門が開いて、二人のディザイアンが飛び出して来る。先ずは連中をジーニアスの進路から引き離し、充分な時間を稼いでから崖に近付くと、一呼吸の躊躇もなくロイドはそこから飛び降りた。
 驚愕し制止する崖上の声は直ぐに聞こえなくなった。
 驚くほど緩やかに、地面が近付いてくる。ロイドは両腕を広げ全身で風を浴びながら落下し、木々の間に両足で着地した。
 じん、と鈍い痺れが下腿を支配したが、エクスフィアによって高められた回復能力が直ぐにそれを払拭する。ロイドは素早く木陰を渡り、ディザイアン達が絶壁を前に躊躇している隙に森の中へ走り込んだ。
 逃げ切れた。顔は見られていない。
 安堵したロイドの傍らで不意に葉が騒々しく鳴った。ぎょっとして木刀を引き抜いたロイドの前に、柔らかな鳴き声がして、茂みと同じ色の動物が顔を覗かせる。
 ノイシュだ。ロイド達に置いて行かれ、仕方なく回り道していたらしい。
「なーんだ、お前か」
 一瞬心臓が飛び跳ねたことは自分だけの秘密として、ロイドがディザイアン達の気配がないことを確認し跨ると、心得たノイシュはあっという間に帰路を駆け抜けた。