天の響

17:月夜

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 その時、空を飾る光の一つが流れた。
 機に乗じ、ロイドは思い付くままに星々を指差しその名を語っていた。旅する者には欠かせない七曜の星、何時だったか彼女が編んだ花輪のように円く連なる南冠――。学校の勉強は出来ないが、星についてだけはジーニアスも顔負けする語りに、コレットは一々頷いては微笑む。
 その表情が常の通り安らいだのを見計らい、ロイドは一度言葉を切った。
「それで明日なんだけどさ、俺も付いて行ったら駄目かな?」
 だがそれを口にした瞬間、少女の顔に憂いが走った。
「駄目って言うか……ディザイアンに狙われたりして危ない旅になるんだよ?」
「そのディザイアンだよ」
 初めに旅への参加を願ったのは、幼馴染みを守りたい想いと子供らしい好奇心からだった。けれど今は違う。
「母さんを殺した連中と不可侵契約を結んでる村で暮らすなんて、俺には出来ない」
 声が震えなかったのは自制の賜物だ。
 母親の死を、事故によるものと思っていたこれまでは良い。だがディザイアンに殺されたと知った今、養父が予見していた通り、ロイドは己の奥底から沸き上がる怒りを抑えらなかった。
 ディザイアンに、人と同じ血が流れているものか。奴等は伝説の中から復活した悪鬼なのだ。
 左手で作った拳に力が籠もった。
「……そだね」
 コレットが呟いたのは同意の言葉だったが、睫毛の先は物憂げに下がっていた。
「コレット、頼むよ」
 神子が許可したとなれば、反対していた他の者も文句は言うまい。
 金色の眉は気が乗らない様子に曲げられていたが、やがて、彼女は小さく頷いた。口端に浮かべようとした微かな笑みは、幾らか俯いたままの顔から滑り落ちてしまったが。
「私たち、明日のお昼に旅立つの。だからお昼頃、村に来てくれる?」
 それは同行の許可だ、と理解したロイドは顔を輝かせた。
「ああ、分かった!」
 思わず大きく弾んだ声はテセアラまで届きそうだった。
 コレットを守り、天使になるのを助けることで、世界は再生される。それはディザイアンを封じる事であり、母親の仇を討つ事に繋がる。
 けれど少女の憂鬱な色は消えぬまま、唇は溜息に繋がった。
「やっぱりあのレミエルさまがホントのお父さまだったんだね。私、天使の子供だったんだ」
「良いじゃないか」
 ロイドは腕を広げた。
 思い悩んで見えたのはその事だったのか、と得心すると同時に、ジーニアスもコレットも、何故そんな事が気になるのだろうと彼は不思議に思う。
「どっちが本当の親父でもコレットはコレットだ。何にも変わんねぇ」
 自分だってそうだ。両親の事など何も覚えていないが、ダイクの子ロイド・アーヴィングは確かにここに存在する。血の繋がりとはまったく別の、何かが自分たちを繋ぎ合わせている。
 但しそれは眼に見えないものであるため何と説明すれば良いのか分からず、ロイドは唸り、それからこう言ってみた。
「ただ親父が二人いるだけだよ。人より多くて得した、くらいに思っとけって」
 何事も、他人より多かったり大きかったりするのは偉いことだ──とドワーフは言う。だからロイドもそう思う。勿論、学校の遅刻や居眠りの回数が人より多いと言うのは、あまり誉められた事でないだろうが。
 コレットはほんの少し考える仕草をして、微笑を浮かべた。
「うん、ロイドが言うならそうするね」
 彼女らしい言い回しにロイドは少しだけ苦笑した。
「それにしても、再生の旅か。何かちょっとわくわくするよ」
「そうだね」
 コレットは同意したが、そこにはやはりロイドが思っていたような熱はなく、まるでその静けさそのものであるようなせせらぎの音が、二人の間に流れていた。
「封印を解放して、天使になって、そして最後には……」
 青い瞳は流れを見下ろし、それから瞳を閉じた。
 小川は森の奥から家の傍らを通り、海まで流れている。海の向こうには別の大陸があって、恐らく救いの塔へ続いている。その道程を思っているのだろうか。
 ただ空想に耽るには静謐過ぎる空気だった。
「とにかく火の封印に行けばまたお父さまに会えるんだし。私、頑張るね」
 奇妙な所で途切れた言葉は、今度こそ確かに頬に上ったコレットの微笑みでかき消された。と、まるでそれを見計らっていたように虫の声が其処此処で上がり始める。
 りーん、りーん、りーん……
 村長が自慢していたねじ巻き時計の鳴る音のようだ。そう思ったロイドは、ふと時刻が気になった。
「お前、そろそろ帰らないとまずいんじゃないか?」
 コレットには恐らく未だ村での旅立ちの準備があるだろうし、夜の山歩きは危険だ。それに、ロイドもこれから出発までの時間に首飾りを作らねばならない。出発は昼だから充分間に合うし、巧くいけば一眠り出来るだろうけれど――
「……うん」
 彼女は少し名残惜しげに頷き、ロイドは悪いことを言った気持ちになったが、これから長い旅に出るのだから、月や星を見上げながら話をする機会は幾らでもあるのだ。踵を返したコレットに続き、戸を閉める。
 二人が共有していた世界は引き戸の向こうへ封印された。思いの外大きな音を立てて。
 灯火のない階段を、どこか覚束無いところのある少女を伴いゆっくりと降りた。次第に階下へ向かうロイドの視界に、背の低い卓子を囲むジーニアスとリフィル、そして養父の背中が映る。
 少しだけ背筋が緊張したが、養父はちらりとロイドの方に視線を向けただけで、何も言いはしなかった。もっとも、その事は一層ロイドを居たたまれない気持ちにしたのだが。
「話は済んで?」
 茶碗を置いて、リフィルが静かに顔を上げた。コレットは頷き、それからふと首を傾げる。
「先生、クラトスさんは?」
 早速神子の護衛をしているらしい、と分かってロイドは面白くない気持ちを抱いた。考えてみれば夕刻を回ってからの外出をコレットに許すなど異例のことで、それだけ傭兵を信頼しているのだろう。
 応えたのはジーニアスの方だった。
「辺りを見回ってくるって、出て行っちゃった」
 真面目だよね、と友人が肩を竦めて戯けた仕草を笑おうとして、不意にロイドは気付いた。小道を通って行った黒い影。あれはクラトスだったのだ。
「俺、呼んでくるよ」
 旅に同行する以上少しは役立つところを見せねば、とロイドは言うなり戸口を出ていた。
 実際には、義父の沈黙から今は遠離りたかったと言う面もあった。家は窮屈でなどなかったが――そんな事を言えば拳骨や先生の折檻が飛んでくる前に女神の罰が当たるが――今は、どうしても。
 ロイドは息を吸い直すと、ベランダから見た影の歩みに沿った。妙に切なく吠えるノイシュに背を向け、川に沿って路を行き、木々が立ち並ぶ中、家の角を曲がり――そこで足を止める。
 蒼い背中がそこにあった。