天の響

23:手紙

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 そこにいたのは異形だった。
 村の小さな門をやっとの事で潜ったその「生き物」は、熟れ過ぎた柿の如き肉塊であった。灰緑の皮膚を、黄金色の筋がまるで血管のように脈打ち走っている。よくよく見れば、それは極度に膨れ上がった人のようにも見えた。だが体毛がなく、骨格が歪に曲がった形は、到底自然の生命と思えぬ。
 頭部に埋まった赤い目らしきものが、ロイドを映し光った。
 身体が小刻みに震えたことを、勇み立ったからだと取り繕う意味はあろうか。
「さあ」
 フォシテスが声を上げた。
「引き裂かれるがいい!」
 それを合図に、怪物を抑えていた縄が外され、ロイドに向かって嗾けられる。風を切る音がして、腕が横殴りにロイドを襲った。咄嗟に腰の木刀を抜き、振りかざして一撃を払う。重い。外見通り動きに機敏さはないものの、紅い爪を生やした手らしい突起は長く、どこから繰り出されるか分かったものでない。
 引き戻すところを見計らい、腕に得物を叩き付ける。だが思いのほか硬い肌に切っ先は弾き飛ばされた。
 反動を付け逆方向から振るわれた二度目はかわしきれず、中途に掲げた左手を爪が薙ぐ。布を引き裂き、甲の上を熱が走った。その傷みが身体を動かし、木刀を提げたまま二度地面を蹴り、跳ぶようにして敵から距離を置く。
「フォシテス様! やはりあの小僧、エクスフィアを装備しています!」
 鶏冠の如き飾り兜が高く声を上げる。だがそれに構う余裕はない。
 押し合う人々が、飛び込んできたロイドと、続いて一歩踏み出した怪物の姿に悲鳴を上げた。
「どいてくれっ」
 叫びは無秩序に散る足で踏み付けられた。姿勢を正せぬまま、鎌のような軌跡を描いて下から振り上げられた爪を受け止める。鈍い音がして、片方の手の内から刀が飛んでいった。はっとしてそれを追った視線は、無為に空を向く。
 声がしたのは直ぐ傍らからだった。
「ロイド!」
 呼んだ名を媒介に、ジーニアスが魔法の力を解き放った。かざした手に周囲の炎が呼応し集い、弾丸となって化け物に吹き付ける。しかし拳ほどの火の玉では巨体を焼くに充分でなく、烙印を押しただけであった。
 異形は咆哮をあげた。大気が揺れ、振り上げた両腕によって巨体が更に膨れ上がって見える。
 その一つ目と矛先は復讐に燃え、エルフ族の少年に向けられた。
「避けろ、ジーニアス!」
 だが唱えた術の反動か、幼馴染みは手を挙げた姿勢のまま身体を強張らせ、その小さな頭を押し潰そうと言う怪物の腕を見上げている。このまま下る復讐の鎌に狩られるか。大きく見開いた瞳が揺れ、唇が戦いたのが見えた。
 舌を打つ余裕もなく、ロイドは足をバネのように使って飛び込んだ。空いた手でジーニアスを断首台から突き飛ばし、そのまま怪物の懐まで踏む込む。
 ――ロイドの脳裏であの、傭兵が大男を吹き飛ばした光景が刹那甦った。
 後の事は、呼吸する間もなかった。
 左手の一部がまるで自己主張しているように熱を放ち腰に回った。昨日渡されたまま、返し忘れたあの短刀を逆手に掴む。
 一度見ただけの記憶を頼りに、ロイドは右足を大きく踏み込むと同時に、呼吸を揃える間なく左手を振り子の動きで突き出した。その動作の瞬間、内側から熱を受け筋肉が膨張した。傭兵の性格なのか、まるで棚に並べた商品のように白い刃が煌めいた。上体だけが大きく前に進み、つんのめるような形になりながらも、ロイドは全身に込めた力を緩めなかった。
 びゅうっと耳の傍を風が通り過ぎる。
 クラトスの放った技には遠く及ばぬが、剣気は確かに風を呼び、皮を引き裂き肉に突き刺さった。
 肉の間を通った嫌な感覚が手の平の中に汗の形で残る。剣を使い、手袋越しであるにも関わらず。
 怪物は、表情のない顔に怪訝そうな色を浮かべ、緩慢な動きで腹を見下ろした。そのままの姿勢で、大地に沈む。拍子に差し込んだ剣がずるりと引き抜かれ、赤く染まった刀身が残された。
 ロイドの全身がどっと弛緩し、汗を噴き出した。吐き出す呼吸と吸い込む空気が、肺の中でぶつかり合う。
 あれほどに感じた熱は何処にもなく、甲に冷たく石が宿るのみだ。
「やはり、我々が捜していたエンジェルス計画のものか」
 彫像の如く、場を一望していたフォシテスが動いたのはこの時だ。
 彼の視線はロイドの左手――エクスフィアに固定されていた。
「それは渡してもらう」
 いやだ!
 ロイドは反射的に左手を退いたが、一呼吸の差でフォシテスの右手がロイドの左手首を掴み上げていた。裂けた甲に再度傷みが走る。涼しげな風貌からは想像も付かぬ膂力で、ロイドの渾身の力などそよぐ風ほどにも感じていないようだ。これが、伝説の中から蘇った悪鬼、ディザイアンの長の力と言うものか。捻られた左手の中で、短刀の柄がかたかたと震えた。
「放せ!」
 儘ならぬ叫びへ応えるように石は光を零した。怪物の爪に曝された筈だが、変わらず剥いた卵のような表面で、踊る炎を映していた。
「これはお前らに殺された母さんの形見だ!」
 ディザイアンは、破壊し、奪うことしかしない。その事はロイドに怒りに似た感覚を抱かせる。
 ドワーフは物を作る種族だ。だから、決して相容れる事はなく、許すこともない。
「何を言うか。お前の母は……」
 瞳を細め、フォシテスが言葉を続けたその時、地面に大きな影が落ちた。