天の響

29:救助

フォント調整 ADJUST △ - ▽

 静かに立ち上がった男の動きに合わせて、ロイドの視線は上を向いた。
おしでないなら名乗るがいい」
 紺のマントの裾を揺らしながら無造作にも見える所作で近付いて来た男は、表情は険しいが、端麗な面差しをしている。ふとロイドの脳裏に、何時かマナの血族の家で見た瓶が思い浮かぶ。あの鮮やかな呉須が縁取った真白い磁器――。
 ロイドは一つ咳払いをして、痰を切った。
「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るモンだぜ」
 微かに細められた視線は威圧の刃となって突き刺さった。
 槍の引金に触れる指先が、帯電したように小刻みに震えた。叱咤し男へ向けて構えても、そこには斬り掛かる隙は疎か、退く余裕もない。イセリア村で牧場主フォシテスと見えたあの時と同様に。
「いい度胸だな」
 応えに対してか、向けた穂先に対してか、男の唇の端が緩く持ち上がる。
「しかし、貴様のような下賎の者に名乗る名前は、生憎持ち合わせていない」
 組んでいた手が解かれたのはその時だ。
 掌に輝きが宿り、白い、光の塊となってロイドの瞳を射た。周囲の大気が突如として張り詰めた気配に、頬が強かに引き攣られ、双鬢の後れ毛まで逆立つ。
 魔術!
 反射的にロイドは左腕で顔を庇った。それは本能的な動きであって、意識の冷静な部分は放たれる魔術に対して備える無意味さを悟っていた。振り下ろされた鎚の下で、板金にならぬ金がないのと同じように。
 だが、最期の瞬間は訪れなかった。
 男の視線は今やロイド自身でなく、その左手の甲に宿る形見の秘石に注がれていた。
「それはエクスフィア! まさか貴様が、ロイドか」
「だったら?」
 愚かな問いではあった。殺すか、奪う為に殺すか、ディザイアンの行為には、ただそれだけの違いしかない。
 故に、男が応えぬまま腕を下げた事の方に、ロイドは狼狽した。
 魔術の光が、宙に解けて消える。その煌めく軌跡が光の粒子を掃き、男の瞳に不可解な思考の色を宿したのを、ロイドは見た。
「……なるほど、面影はあるな」
 その呟きは空気の振動が音となる下限の域にあり、ロイドの聴覚に届くより前に、突如として鳴り響いた警鐘に圧されて消えた。言葉を気にしている間もなかった。音に釣られ、男が天井を仰ぎ見たのを好機として、ロイドはすかさず竜頭を押し込んだ。
 光熱が槍先で膨れ上がり、刹那の後に弾け飛んだ。乾いた爆音が警鐘を一瞬掻き消す。間近く炸裂した閃光に、視界が真白く塗り潰される。
 しかし。
「甘いッ」
 世界がぐるりと回転した。
 受身を取る間もなく頭から床に叩き付けられたロイドの身体は、樫造りの卓子が止めるまでその勢いで二度前転した。脳が揺さぶられ、耳の奥が激しく脈動する。
 見上げた男は、変わらず腕を組んだ姿勢で立っていた。彼がこの一瞬に雷光を避け、ロイドを打ち伏せた事を示すのは、微かに靡く鮮やかな藍の髪だけだ。
 ――殺される。
 思ったが、ロイドの身体は半寸たりとも動かなかった。
 その時、前触れなく警鐘が止み、扉が開かれた。
「リーダー、神子達が侵入してきた模様ですぞ」
 軽鎧のディザイアン兵を従え現れた大男の姿に、ロイドは倒れた姿勢のまま思わず声を上げた。
「お前は!」
 黒髪を逆立てたその男は、間違いない、イセリアを襲ったディザイアンだ。
 大男も第三者の存在に気が付き、瞬時に腰の曲刀を抜き放つ。そしてその切っ先をロイドへと向けた。
 このままでいれば、殺される。
 当たり前の事をもう一度思う。途端、今度は身体が動いた。立ち上がる、とはとても言い難い鈍重な動作で、それでもロイドは起き上がる。同時に鼻の奥に錆臭さが充満し、流れ出してきたのを拳で拭い上げた。体裁を気にする余裕はなかった。ただ、幼馴染みの少女には余り見せたくない顔だとだけ思う。
「ボータ。奴がロイドだ」
 男の言葉に、ボータの厳つい顔に愉快そうな表情が上った。
「……これは傑作ですな」
 何を傑作だと言うのか。知っていて手配書を回しているくせに。頭に血が登り始めた事を、ロイドは感じていた。
 男の静かな声だけが淡々と続けられる。
「私は一旦退く。奴に私のことを知られては計画が水の泡だ」
 男は言って、ロイドやボータたちが入ってきたのと逆方向にある扉を開いた。ロイドの位置からは丁度死角になって見えないが、造りから考えるに、恐らく続きの間があるのだろう。
「神子の処理は如何しますか?」
「お前に任せる」
 答えてから、視線の端がロイドを捕らえた。
「……あれも頼む」
「了解しましたぞ」
 深く頭を下げたボータの背は無防備にも見えたが、そこへ打ち込む事は、左右に構えたディザイアン兵からの攻撃を受ける事と同義だ。
「くそっ、勝手なことを!」
 遂にロイドは声を上げた。しかし男は振り返ることなく扉の向こうへ消えていった。
 無論、あの男がこの場にいたからと言って何ら好転する事態はない。隙を突いたつもりで倒されてしまう自分では、到底太刀打ち出来そうにない。だが、もし本当に神子が――コレットがこのディザイアンの基地に現れたと言うのなら、時間さえ稼げば……。
 結局、守るつもりが助けを求める事になってしまう。
 絶命の危機と、無力さと、何か、色々なものがロイドの心臓を冷たい手で掴み上げたその時、入り口の扉が左右に開かれた。