天の響

36:熱砂

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 陽は頂点に差し掛かろうとしていた。
 神子を迎えた封印の地は、ロイドが密かに思い描いていたような歓声も、奇跡もなく、ただ静けさの中にあった。
 それは廃墟だった。
 天井が崩れ、柱が折れ、破壊し尽くされた姿のまま打ち棄てられ、地図から消えたオアシス。通り過ぎた年月は、泉の跡も分からぬほど周囲を埋めた砂の深さが示していた。
 誰の言葉もなかったが、一行はほとんど同時に砂上に降りた。
 傾いだ柱の足下に僅かな影がある。子供たちと竜はその影に身を寄せて陽から隠れ、水の入った革袋に口を寄せた。まずコレットが一口、続いてジーニアスが頬張るようにして水を飲み込む。ロイドに渡った頃には、水袋は既に握った拳ほどの大きさになっていた。それを少しずつ口に含み、ゆっくりと嚥下する。心地よい冷たさなどない。代わりに、身の隅々まで染み渡るような感覚がロイドを満たし、疲れは長い息となって抜けていった。
 一息吐くと、次は腹に出来た空隙が注意を引く。コレットが恥かみながら焼菓子を取り出した。ジーニアスが誕生日に贈ったクッキーだ。それを有難く味わいながら、ロイドは養父が渡してくれた荷物の中に干し果実があった事を思い出した。イセリアの干し葡萄はコレットの好物だ。
 ふと聞こえた砂を踏む足音に視線を向けると、傭兵が廃墟の中へ踏み込むところであった。
「あ、私も行きます!」
 コレットが立ち上がり、その背を追う。更にリフィルまでも仕度を済ませている事に気付き、ロイドは摘んだ干果を慌てて袋に戻した。
 その時、不意にジーニアスが声をあげた。
「ね、姉さん。誰か残って竜の面倒を見ていた方がいいんじゃない?」
「あら、ジーニアス。ここで待っていたいの?」
 身を震わせるようにしてジーニアスは首を振った。一体、誰が好んで熱砂に残りたいと言い出すものか。ましてや、進む道は心躍る冒険への一歩だと言うのに。
「ううん、そうじゃなくて――」
 続く声は砂漠の熱で溶けてしまったのか、明確な言葉を結ばなかった。
 リフィルは菫の眼差しを柔らかく細めると、弟の懸念を解いて諭した。それは教壇に立っていた姿と変わりない師の眼差しで、子供たちにとってこれより信頼すべき弁はない。
「竜は繋いでおけば問題ないわ」
 そうだ、とロイドも頷いた。
「ノイシュだっているんだから、心配するなよ」
 魔物が出ない限りと言う注釈が必要だとしても。
 二人の言葉がノームの引力を強めたかのように、ジーニアスの頭は地面を向いた。頷いたのか、項垂れたのか、あるいは双方だったのだろうか。
「僕が心配してるのはそっちじゃないんだけどね……」
 聞き返すよりも早く、奥から友人たちを呼ぶコレットの声が聞こえた。
「ねぇねぇ、ここが封印なのかな? ウチの紋章があるよ」
「なんですって?」
 リフィルが素早く身を翻した。二人もそれに従う。
 手招きする彼女の傍らで濃紫の背中が屈んでいた。傭兵の大きな手が砂を払うと、磨き上げた石が姿を現した。その表面には、確かにマナの血族の紋章が刻まれている。
 クラトスが立ち上がるのと入れ替わりにリフィルが膝を着き、まるで拝み伏すようにしてそれに触れた。
「素晴らしい!」
 ロイドは思わず自分の耳と目を疑った。それは誰もが同じだったらしく、声の主はその場にいた全員の視線を浴びる結果となった。
 それはリフィルだった。
「見ろ、この扉を! 周りの岩とは明らかに性質が違う。これは古代対戦時魔術障壁として開発されたカーボネイトだ!」
 それは聡明で落ち着いた教師の声と別物であった。興奮を露わに、まるで銅鑼を乱暴に叩いているような勢いで一人叫んでいる。口調までが常とは異なっていた。
 驚愕が呼吸すら止め、言葉を失う。心臓が跳び上がったまま降りてこない気がして、ロイドは慌てて胸の辺りを叩き唾を飲み込んだ。
「ああ、この滑らかな肌触り。見事だ」
 リフィルは愛しそうに石を撫で、歓声をあげている。
 重い沈黙の中、クラトスの視線が動いて子供たちへ向けられた。
「いつもこうか?」
 まさか!
 毅然として美しいエルフの教師は、子供たちの――ロイドの密かな憧れであったのに。
「……隠してたのに」
 ジーニアスの吐いた溜め息は廃墟に積もる砂に紛れ、神子の足跡の一つになった。
 当人は背後の様子を一顧することなく、石を堪能した後は周囲の細工等に顔を寄せ凝視している。その姿を教壇で見慣れた先生と重ね合わせることはできず、ロイドは天を仰いだ。
 ただ一人コレットは、変わらぬ笑顔でその様子を見つめている。
「ん?」
 ふと、リフィルは動き回るのを止め、一ヶ所を差した。
「コレット、ここに手をあてろ。それで扉が開くはずだ」
「ホントかよ」
 返答を求めぬリフィルの指示を軽口で遮ったのは、悪意があっての事でない。
 彼女が指したのは半ばから欠けた台座だった。天の奇跡を望むには、役不足でないのか。第一、石には継ぎ目の一つもなく、扉と断じて良いものか定かでない。
 だが直ぐにロイドは後悔した。振り向いたリフィルの視線が、先の魔物のように爛と輝き、哀れな贄を石像に変える。
「これは神子を識別するための魔術が施された石版だ。間違いない」
 リフィルは台座に手を乗せ強く頷いた。丸みを帯びた角こそ、前に訪れた神子たちが触れた痕跡だと高説が続く。
「じゃあ、置きますね」
 宣言と同時にコレットは片手を置いていた。
 ――初めにあったのは揺れだった。
 身構えたロイドの目の前で、石が真中から裂けた。養父が鏨を打ったように鮮やかに。
 重い音が大地を揺らし、石戸は左右に開かれた。それが正しく冒険へ繋がる扉であった証拠に、石の下からは深く地中へ誘う階段が姿を現した。
「開きました! すごい! 何だか私、本当に神子みたいです」
「神子なんでしょ。もー」
 ジーニアスは呆れて首を振ってみせたが、笑いを含んでいる事は声音で明らかだった。
 気取らぬコレットらしいとロイドも密かに笑んだが、先程叩いた胸の辺りに鈍い痛みがあることも否定は出来なかった。真の神子たる少女が「神子みたい」であるならば、少年など神子を守る「剣士みたい」に過ぎない。少なくとも、傭兵が神子の護衛として見える様にはいかないだろう。
 知らず睨む様にして見つめていた大きな背から視線を外し、ロイドは先に立って声を上げた。
「よーし! 中に入ろうぜ!」