天の響

邂逅

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 双月の光も殆ど差し込まない闇の中を、複数の足音が駆け抜けていた。時折左右に眼を配り、喧噪のする方向を避け、その足取りは町外れへと向かっていく。
 その時、乾いた炸裂音に遅れて人為的に打ち出されたマナの光が薄暗い街並みを青白く照らし出した。
 駆けているのは年若い男女の三人組だった。
 その一人である娘は片手で頭上の帽子を押さえていたが、慌てていたのか隠し切れていない特徴が明かりの下に引きずり出される。人と同じ姿形でありながら、しかし耳の先端が僅かに尖っている。人間とエルフの狭間に生まれた者、ハーフエルフだ。
 音につられ空を見上げていた娘が、不意に何かに足を取られて躓いた。状況に似合わずふわりと優雅に帽子がずり落ちる。後ろを追う形で走っていた少年は声をあげ、蹲る彼女に駆け寄った。
「姉さま!」
 悲鳴に似た声の方に気付いて、数歩前に先行していた青年も足を止めた。些かおぼつかない足取りで娘が立とうとするのを見ると、直ぐに引き返して手を出す。しかし彼より一瞬早く抱き浚うようにして、少年が姉の身体を支えた。
 そうして顔を覗き込んだ弟を安心させるように、娘は花が綻ぶような笑みを浮かべた。細い指先で軽く弟の手に触れ、それを解かせる。
「大丈夫よ、ミトス」
 けれどその顔は連続して空に浮かんでいく青い照明の加減で、どこか辛そうに見えた。
 手の行き場を無くし、所在なげに宙で浮かせた青年は眼を細めると何の得心がいったのか、嗚呼と首肯した。
「マーテル、照明弾は見るな。我々にマナの光は明るすぎる」
 この世界の万物に宿るマナ。エルフの血族のみがそれを知覚し操れる。しかし魔科学の光は彼らにとって天敵と言えた。自然では見られない高密度のマナの輝きが瞳を射るのだ。ある程度慣れたり備えていれば問題はないが、不意をつかれると難しい。それで眩暈を起こしたのだろう。
 一つ照明弾が撃たれる度に、大気や樹木に宿るマナが少しずつ奪われていく。その時、それまでとは明らかに違う轟音が地響きを立てた。立ち止まったままだった三人の身体が揺らぐと、多々良を踏んだミトスに代わり今度は青年の方がマーテルの身体を掴んだ。
「火炎砲を撃ったな」
 青年は兵器の名前を挙げ柳眉を吊り上げた。甘い顔立ちの彼も、そう言う表情を見せると男らしく見える。少年も、背筋の辺りがちりちりと静電気を帯びたように感じて呟きを落とした。
「どんどん悪くなるね」
 戦争の状況も、そのやり口も。
 この街はさしたる拠点でもない筈で、故にエルフの古里を追われ、人間からも隠れるべき彼らは此処を選んで身を寄せていたのだが、布告もない不意打ちによって僅かな平穏はあっけなく幕を閉じた。他にも潜んでいた筈の同族はこの事態にどうしたのか、気にはなったが今は自分たちが生き延びる事で精一杯だ。他者に手を差し伸べれるほど力がない無力さは、この街を襲った人間たちへの更なる嫌悪としてミトスの心に落ちた。
 人間を恨みに思ってはいけないと言う姉の言う事は理解出来る。この身に流れる血には確かに人のものが混ざり合い、だからこそ他と相容れないハーフエルフと言う者たちが在るのだから。
 けれど人間もエルフも、一部とは言え同じ血を持つハーフエルフを認めてくれない。蔑み嘲り憎悪し追い立てる。今も占領後に始まるだろう検問を避け逃げねばならない。
 不意に三人ともが顔を上げた。まるで波が引くように、周辺のマナが減っていく。
「避けろ!」
 声があがったのとほぼ同時に、凄まじい熱と風が三人の間を分断した。砲から打ち出されたマナの塊が炎を纏って突進する。程度の悪い舗装がなされた地面が抉られ、その上に薙ぎ倒された建物が崩れ、路を塞いだ。
 衝撃になぎ倒され、少年の小さな身体は街路に転がされた。しかし打った部位は痛んだが、半身が煤けただけで済んだのは奇跡的だった。
 次の瞬間、姉と青年の事を探して軋む身体を立たせ、顔を持ち上げた彼の名が呼ばれた。
「ミトス!」
 無事であるらしい姉の声は、けれど火が燃え移った建物の向こう側から聞こえる。安普請の木材が五月蠅いくらいの音を立てる合間から、青年の方の話し声も耳にすることが出来た。三人とも無事だ。
 ほっとして思わず声のする方に近付いたミトスは、盛大に巻き上がった黒い煙を吸い込んでしまい咳き込んだ。肺が動くたびに骨と筋肉が収縮を繰り返し、痛みを再認させる。
 心配し怪我の有無を問う姉の言葉には首を振り、それでは彼らから見えないことに気付いた。息を整え、相手にも聞こえるように声をあげる。
「大丈夫、街の外で会おう!」
 万が一の際は街外にある古の王国の跡地で落ち合おうと決めていた。そんな約束は行使したくなかったが、入り組んだ街路で兵と炎を避けながら合流するよりは効率が良いに決まっている。
 数瞬の間があって、応えたのは青年の方だった。
「わかった。無事でな」
 言われた瞬間、不覚にも涙が零れそうになってミトスは慌てて目元を拭った。拍子に顔も黒く汚れてしまったようだが。
 自分が言い出した事だが、まるで見捨てられたような気分になった。勝手な話だ。しかし物分かりが良く利発だと評されていても、ミトスは未だ十を越えたばかりの子供だ。ハーフエルフだからと迫害される苦しみも、姉がいるから耐えてこれた。姉が笑顔を見せるだけで、大丈夫だと、未だ自分も立っていれると安心した。その大切な温もりが今横にない。独りぼっちの寂しさは彼を初めて襲う不安だった。
「姉さまたちも気を付けて!」
 彼女と共に在り守れる者が自分でない事が苦しく、ただミトスは二人の安全を願って声を上げた。それから覚悟を決め踵を返すと、戦場と化した街を抜け出す為に再び足を前に進めた。

 乾いた空気の上に火の粉が舞い始めた。
 少年の耳に風の精霊たちの囁きが聞こえる。その指し示す方向へと急ぐものの、砲の音がする度に導く声は薄れていく。助けられるだけで何も出来ない歯痒さに奥歯を食いしばる。
 少年の瞳に魔科学の力で無理矢理使役され狂い踊る火の精霊たちの姿が映る。ミトスはそこから眼を反らし、走り疲れ乱れた呼吸に嗚咽を混じらせた。
 どうして人間はこれが見えないのだろう。
 遂に風の声が聞こえなくなった辺りで、並び立つ家々は疎らになり、道は砂利混じりになった。火の爆ぜる音も遠い。何とか町外れまで出てこれたのだと分かった。このまま進めば何とかなるだろう。
 安堵が隙を生んだのかも知れない。顔の表面を何かが掠めた。ミトスは反射的に身を辟けたが、脇にあった薄汚れた白壁にマナが着弾し、雷の精霊たちがその表面を走ったのが見えた。思わず足が止まる。
「動くな!」
 兵士が一人、細長い棒の先に電撃を纏わせてミトスに向けていた。顔は兜に隠れて見えないが、声は未だ年若い。兵役に就いて間もないのではないだろうか。その鎧の型は、この街のものでなかった。
 既に街の周りには包囲網が敷かれていたらしいと、遅ればせながら気付いた。熟練兵は守備兵への攻撃に、新兵は制圧に動いているのだろう。
「そのまま街の方向に引き返せ」
 ミトスは密かに焦りを感じた。このまま街に閉じ込めれては姉たちと合流出来ない上、ハーフエルフだと発覚すればどんな目に遭わされるか分かったものでない。占領下での厳しい登記、種族確認と、それを偽り逃げようとした同族に与えられた処罰とは、話に聞くだけでも陰鬱だった。だからこそ、早く脱出しようとしていたのだが。
 一人ならば撒けるかも知れない。緊張に喉が鳴った。
 両手を緩く上げて街の方へと振り向き、酷く遅い足取りで数歩足を動かしてみせる。焦れたように電撃の威力を上げ下げしている耳障りな音が聞こえる度、心臓がびくりと持ち上がった。
 そうして無抵抗な素振りを見せながら、薄いマナを呼び寄せ魔術の構成を練り上げる。古里でマナに親しむエルフ族の中にあった時から卓越した才を誇示していた少年にとって、虚仮威しに使うような簡単な魔術は呪文を唱えるまでもない。
 街の至る所に回り始めていた火の精霊たちが呼応し掌が熱くなる。
 炎は、本当は苦手だ。しかしこの場で集めるのに最も適したマナは火炎砲によって大量に打ち出された火の精霊のそれでしかなく。
 逸る心を落ち着かせるため、長い息を吐く。背後の兵士が焦れて動くのが、マナの動きで視える。
「おい──っ!?」
 ミトスは声に応えて振り向き、大きな音を立てて地面を蹴ると手の平を宙で滑らせた。解き放たれたマナが数発の火の球と化して兵士を襲う。命を奪う程の威力は持たせていないが、確かな熱は相手を怯ませるのに充分な役目を果たした。兵士が棒を手元に退き、唸り声をあげる。
 隙を逃さず走り抜けたミトスは、しかし右腕の付け根辺りから半身に走った痛みにもんどり打って転んだ。強かに身体が打ち付けられる。打ち込まれた雷のマナによって生命に宿るマナが一瞬狂わされたのだ。
 そして横手から別の足音が聞こえた事で、少年は痺れる身体を強張らせた。どうして気付かなかったのだろう。新兵が一人で配置されている訳がない。
「大丈夫か!」
「ハーフエルフだ、糞っ!」
 頭上から罵り声が聞こえ、咄嗟に傷付いた背を庇おうと伸ばした手はそのまま後ろから捻り上げられた。腕が無理な方向に押さえ付けられ、耐えきれず甲高い悲鳴が口から溢れた。
 もう一度、二度、そして三度と、腕や背中に電撃が押し当てられる。呼吸が途切れ、ミトスは意識を失いかけた。だがその度に、支えるものもなく崩れ落ちた頬に当たる冷たい土の感覚に引き戻される。
 兵士たちが新兵の上に大した武装をしていないのが幸いだった。そうでなければ死んでいたかも知れない。
 しかし何度も生命と相反するマナを流し込まれれば、いずれ死に至るだろう。既に頭は朦朧とし、足掻こうとした思いはまるで動きにならない。
 自分を襲う死の想像をしたことがない訳はない。生き抜く方が厳しい大戦下に生まれたのだ。形ばかりの停戦条約が破られ古里を追われた時から、ただでさえ細かった命綱は、姉に繋がる一本を除いて切れてしまっている。
 そうだ、姉は無事だろうか。甘える弟に向ける優しい微笑みを思い出すと、涙が溢れてその姿が滲んだ。引き留めようと必死で目を凝らしていると言うのに、痛みに身が反る毎に、視界の霞みは酷くなる。罵声が遠くなっていく。
 少年が攻撃の手が止まっている事に気付いたのは、瞬きを三回繰り返してからだった。
「騒がしい、何事だ」
 この場になかった、静かだが低い声が聞こえる。
 重い首を何とか動かす事で見えたのは、背が高く精悍な顔付きの若い人間だった。

 複雑な構造の白服を着たその男は、兵士たちよりも明らかに高位であるらしかった。
 彼が纏う湖畔のように静かなマナの輝きが一条の光となって、街路を照らしているようにミトスには視えた。そしてその身体そのものまでもが青い光に縁取られているようだった。もっとも、それは彼が背にした照明弾の輝きだったのだが。
「なにをしている」
 再度男が問い、まるで塵のように転がされたミトスを見下ろすと赤味を帯びた濃い色の瞳を細めた。しかしその言葉は少年に対して掛けられたものでない。
「街内での暴行略奪は禁じられている。知らぬ訳でもなかろう」
「此奴はハーフエルフです!」
 受けたのは己の正しさを信じて疑わない調子の声だった。それに上位者への諂いと、若さ故に抑えきれない昂揚とが加わっていた。
 弾圧する相手がハーフエルフであると言う事は、人間たちにとって充分過ぎる理由になるらしかった。その相手がどのような痛みを覚え、命を落としたとしても省みることがない。人間と同じどころか、犬畜生ほどの価値も認められない。
 そう思った途端、頭の片隅がかっと熱を帯びた。自分が何に対して憤っているのかは分からないまま、動かない四肢を叱咤し、ミトスは傲然と頭を上げた。
「僕たちだって生きてる。それなのに人間と違うだけで殺されるの?」
 先程まで弱々しく悲鳴を上げていた筈の少年の変貌に、兵士たちはたじろいだように息を呑み、そして数瞬遅れてから口答えされた事に気付き、いきり立った。
「この薄汚れた種族め!」
 頬を殴打された勢いで再びミトスは地面に倒れ込んだ。柄で殴られたのは、ハーフエルフの権利を認められたからでなく、高位の男の前だからという僥倖に過ぎない。喘いだ口に砂利が入り込む。ミトスは酷く情けない気持ちになって叫び声と同時にそれを吐き出した。
「半分はあなた達と一緒だ!」
 それは誰にも否定出来ない事なのだ。人間にもエルフにも、そしてハーフエルフ自身にも。
「その子供の言う通りだな。暴力は止めろ。どうせ動けまい」
 男が発した言葉に驚いたのは、正当性を否定された兵士たちだけでない。ミトスもまた、呼吸を止めて青いマナの男を見返した。
 冗談を言ったのかと思った。しかしその表情は至極真面目なものだ。
「馬鹿な」
 兵士の一人から漏れた言葉こそ真実だろう。ハーフエルフが生きとし生ける者であることや、人間の血を引く種族であること。それは誰もが知ってはいても認めていないことだった。
「ハーフエルフが我々と同じ権利を主張する事を許すなど、いくら騎士様でも……」
 兵士の能弁を遮ったのは男の鋭い眼だ。同時に彼が有するマナが膨らみ、冷然たる輝きを放った。それはマナが見えない兵士たちにも、確かな威圧感として感じ取れただろう。
「騎士団員には軍規に従わぬ者を斬って捨てる権限があるが、それを行使されたいのか?」
 返答はなく、捻り上げられたミトスの腕は解放され力無く大地に落とされた。しかし一歩下がった兵士たちの頬は不満げに歪められていた。
 どうやら騎士であるらしい男は、掴みにくい表情のままミトスを見下ろした。ミトスはふらつく頭を持ち上げ、それを見返した。何故だか地面に這い蹲った姿では相見えたくなかったのだ。
「本当に助けて、くれるんですか」
 その意志に反して声は掠れ、喉奥に詰まった。
 遠くで火炎砲が撃ち込まれたらしい音が聞こえる。
「お前は生きているのだろう?」
 そう主張した者の権利は侵せないのだと、騎士は呟いた。
 奇怪しな話だが、口にしたミトス自身ですら信じていなかったハーフエルフの生きる権利を、この男は真面目に受け取ってしまったらしい。
「私の規律は軍に属しているのでな」
 声には多少の皮肉があったが、それが何故なのかミトスには分からなかった。
 ともあれ、死を面前にした最悪の状況は免れた。だが今も状況が悪い事に変わりはない。
「逃がしてやるわけではない。従って貰おうか」
 自分の力でこの騎士を相手に逃げ出せるか、それは絶望的だと思った。

「立て」
 命じる声は静かだが、斬り付けるようだった。腰に履いた剣は抜かれていないと言うのに、白刃を突き付けられているような緊張感が辺りを縛る。しかしそれに逆らい、上体を起こしただけの格好でミトスは騎士の視線を受け止めた。もっとも、未だ痺れの残る身体で立ち上がれるとは思えなかったのだが。
 捕らえられたハーフエルフの行く末は話に聞いていた。
「僕に魔科学兵器の研究をさせるの?」
 それとも実験体か、と続けた声はやはり掠れていたが、上出来にも震えてはいなかった。
 感情の薄い瞳が静かに見下ろしている。
「期待はしていない」
 突き放すような調子で騎士は言い、ミトスはそれが酷く悔しく感じられた。小さな唇に歯を立てる。未だ小さなミトスでは何の価値もない。相手の慈悲に縋るしか生き延びる方法はないのだと、そう断じられているようで、何故か無性に腹が立った。
 しかしその時、不意打ちのように騎士は空気を和らげた。
「だが、この場で死ぬよりましだろう」
「そうかな……」
 思わず漏れた疑念の声に、誰よりもミトス自身が驚いた。自分は何を言っているのか。とにかく生き抜かねばならない筈なのに。生きていればきっと明日を掴めるからと、誰よりも愛しい血を分けた人が懇願するから。
 だが数瞬瞬きを繰り返す内に、嗚呼と腑に落ちるものを感じた。
 続けたミトスの声は妙に上擦った。
「嫌だ」
 応えた瞬間圧倒された。咥内が干上がり緊張で口許の筋肉が強張る。
 これが人の言う剣気と言うものなのだろう。ミトスにとっては彼が放射する強いマナに、物理的な力を叩き付けられたようだった。
 しかし未だ言葉を返すことが出来たのは、幸いにも彼が他の人間と違い憎悪や憤怒と言った感情を滾らせていなかったからかも知れない。
「姉様に会えなくなるのも嫌だけど、マナを奪う片棒も担げない」
 ヘイムダールの里で暮らしたミトスにとって、マナは何よりも尊重されるべき世界の理だ。マナそのものである精霊たちは、虐げられた彼にとって唯一の友だ。
 だから、裏切れない。
「生きる権利はいらぬと言うか」
 けれど、姉を哀しませる事も出来はしない。
 比べられないものを並べている事に、人の身である騎士には分からない。それは理解している。けれど。
「大地の悲鳴が聞こえれば、あなたにも分かる」
 どうにもならない事を言った。
 遂に騎士が腰の剣を抜いた。白銀の輝きが薄闇の中で冷えた印象を残す。まるで見計らったかのように新しい照明が空に打ち上がり、同時に轟と音を立ててマナが吸い取られていった。
 反射的に心臓が竦み、しゃっくりを上げるような動きで跳ねた肩を、ミトスは歯を食いしばって抑えた。
 やはり一人で切り抜けるのは無理かも知れない。濃厚な腐臭と共に躙り寄る死の気配がある。
 死ぬのは怖い。死にたくない。
 けれど命の為には矜持も捨てる弱い者だと蔑まれたくない。
 目許が熱い。
「あなたのマナはとても綺麗なのに、気付かないの?」
 真っ青な人工の光を浴びて立つ騎士の紅い瞳が僅かに揺れたように感じた。だがそれは、ミトスの身体が揺れた為だったのかも知れない。
 また火炎砲だと、最初は思った。
 しかし近過ぎた。比較にならないほど重い振動が大地を揺るがす。大地が脈動するとは、正にこのような事に違いない。
「なんだ?」
 騎士はミトスから意識を逸らすことはなかったが当惑した様子で周囲を探った。敵軍の新兵器か天災かは分からぬものの、異変を前にハーフエルフの子供など小事だ。
 一方、重くなってきた頭をただ呆然と惰性で支えるミトスには、はっきりと異変の形が視えていた。
 肌寒く感じられる程薄まっていたマナが、大地を中心として急速に、色鮮やかなほど力を蘇らせていく。地中から沸き返るような声が聞こえる。
 マナなど視えない兵士たちも、肌の上を走った強い気配に感応していた。浮き足立ち、辺りを見回す。
「地の精霊が怒ってる──」
 呟きは大地が上げた唸り声に飲み込まれた。
 大きく視界がぶれた。身体が沈み、再び顔面から地面に投げ出される。揺れは振り子のように大きくなり、立っていられなくなった。戦いた兵士たちは、得物も投げ出し知恵なき獣のように這い蹲ったまま、意味もない叫び声を上げている。
「狼狽えるな!」
 さすがに騎士は冷静だったが、彼ですら地に両手と膝を着いたまま立ち上がれずにいる。
 生き物のように脈動する大地が人の手に抑えられる筈もなく、しかしミトスは自分を取り囲む別のマナの流れに気が付いた。優しい息吹が、汗で髪の毛が貼り付いた頬を撫でていく。
 助けだ。素直にそう思った。
 ふらつく身体が持ち上げられた。踏み締めた大地は少年にだけ平伏し彼の行く手を開ける。重い足を一歩前に進めた。自分自身の重みに蹌踉めき危うく倒れそうになる。体力は限界に達していた。強かに打たれた腕はろくに動かず、平衡感覚を失っている。だがそれでも未だ歩ける。
 その事実はミトスに死を拒絶する確かな力を与えた。脳裏で姉が微笑み心を導く。何処かで魔科学兵器が一つ壊れる度に立ち上る凄まじいマナの煌めきがその足取りを照らした。
 その時、先程と異なり立ち上がったミトスを伏したままの騎士の瞳が射た。歩みは止めないまま、ミトスはそれを受けた。騎士の剣を握る手に力が込められ──だがそれを振るう事はなかった。
 最早道を遮るものはない。ミトスは初め引きずるようだった動きから、次第に気持ちと同調し駆け出した。泥と煤で汚れた身体に、解放され歓喜の声をあげるマナが流れ込む。
 ただひたすらに前だけを見て進んだ。直ぐに街並みは途切れ、あれほど彼方に思えた街外がミトスを迎える。そのまま風を感じて走った。息が上がる。だが足を緩める事はしない。今は亡き国の眠る場所、否、ただ姉一人を求めて。軽い足音がざわわと流れ、少年の訪れを告げた。新緑のような髪を揺らして現れたのは姉だ──!
 少年は姉の胸に飛び込みその木漏れ日の如き笑みを仰いだが、空は今後の道先を予告するかのように分厚い雲に覆われていた。

2003/11/23〜2004/01/11 初出