天の響

巡る朝

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 目覚めは爽快だったが、もう数えるのも嫌になるくらい久し振りの平らな寝台の上からは離れ難く、少年は毛布を掻き抱いたまま首を動かす。
 傍らで未だ深い眠りについている姉が確認出来ると、無意識の内に頬が緩んだ。
 姉だけは一部屋別に取ってやりたいと思わないでもなかったが、結局今回も大部屋だった。大部屋を使うのには、旅費を削ると言う面と、万が一の時に直ぐ対処出来るよう一緒にいた方が安全だと言う面とがある。
 カーテンの隙間から差し込む陽がちらちらと彼女の目元を照らす度に、起こしてしまうのではないかとそれだけが気になった。勿論彼女が起きて、何時もの優しい笑顔を見せてくれればそれはまた嬉しいのだけれど、只でさえ辛い旅路に同行して貰っているのだから、時には休んで欲しい。その気持ちを嘲笑うかのように遊ぶ陽光がいっそ憎らしかった。
 反対側に首を巡らすと、同族の青年も未だ寝ていたが、もう一人の同行者である騎士の寝台は空になっていた。まさか、と不安に駆られて上体を起こす。すると寝台の下に剣が封印ごと残されているのが見えて、ほっと胸を撫で下ろした。騎士の剣は命だ。絶対にこれを置いて何処かへ行く筈もない。
 少年は毛布の間から身体を抜くと、注意深く足を進め、小さな両手で剣を持ち上げた。ずしりとした重みが腕に掛かる。持ち主に相応しく、華美な部分はまるでない実用一点張りの品だった。ただ柄頭に小さく紋章があった。もしかすると、彼の手元に唯一残された家紋かも知れない。鞘には、身長の高い彼に併せて作られたらしく平均より幾らか長い刀身が納められている事を少年は知っている。好奇心に負け引き抜いてみようとした直前、封印の事を思い出して止めた。
 封印と言っても、鞘と柄とを薄紙で括っているだけだ。王国に所属する兵士階級以外は市街での帯剣を許されておらず、けれど人の出入りの度に管理するなど出来よう筈もない。結果、このように形ばかりの封印を施すようになったのだと言う。人間の考える事は良く分からなかったけれど、それが規則ならば大人しくしておこうと思った。第一、市街で剣を抜けば衛兵に捕らえられる。仮にやり過ごしても、城壁の外に出る際封印が破られている事が見付かれば罰金が科せられる。その時ハーフエルフである事がバレれば命取りになりかねなかった。
 今回訪れた街の規模は大きくもないが小さくもない、身を寄せるのに丁度適当な感じだった。
 拠点として重要な都市になれば、旅客に対する血の確認も厳しい。検査器を持ち出されれば言い逃れは出来なかった。必要な時には、騎士の奴隷の振りをすれば良いのかも知れなかったが、それは矜持が許さなかったし、姉も青年も、そして騎士も嫌がるに違いなかった。だから大都市には行かない。かと言って村等の小さい集落は、一層余所者を嫌う。ほんの一宿或いは僅かな食料を求めるにも、厳しい視線が突き刺さる。年若い四人連れはどうしても眼を引く上、相手が納得してくれるような関係が想像し難い。
 この街は地理的に余り重要視されておらず、それでいて良い具合に混雑している。ならず者も居そうだが、周囲にとってみれば自分たちも同じことだ。
 それにしても、騎士は命を置いて何処に行ったのだろう。気にはなったが、探しに行こうとは思わなかった。彼は一行の中で一番の年嵩でそれなりの分別はあったし、入れ違いになる方が恐ろしい。一人で出歩かせられない程、油断のならない仲でもない筈だ。そう言ったら同志である青年は心を許し過ぎだと怒るのだろうけれど、理想を解さない同族よりも、道標を預けてくれた異種族を信頼して何が悪いのか。
 少年は昏い淵に落ちかけそうになる思考を、頭を振るう事で払った。金髪の先が揺れる。
 彼ら一行はハーフエルフの若者三人と、人間が一人。これを種族間の痼りを越えた奇跡と評するか嫌悪するか。後者の方が、未だ多い。ハーフエルフの方も、虐げられ過ぎて相手を信じられなくなっている。お互いが不信を高めていては決して良い結果を生めないと言う事が、何故分からないのだろう。少年にはそれが不思議だった。
 不意に静かな足音が聞こえて、人に有らざる耳の先がぴくりと動いた。規則正しい足音が、丁度扉の前で止まる。安宿らしい錆び付いたドアノブが微かに耳障りな音を立てて回り、扉を開けた。
 最初に部屋の中の少年に見えたのは、ノブを握った無骨な手。
「おはよう、クラトス」
 名を呼ばれた騎士の眼が先ず向いたのは、少年ではなくその腕の中に納められた自身の剣だった。嗚呼、やはりこれは紛れもなく彼の命なのだ。と納得して、少年はそれを元あった場所に戻した。そして彼が語り掛けてくるよりも早く微笑む。
 微笑む事。それは最大の武器だ。口の端を少し持ち上げて、穏やかな口調で言葉を発すれば良い。そう努めるだけで相手の気持ちを和らげる事が出来る。姉を見習って手に入れたこの武器を、少年は存外気に入っていた。何故ならそれは直接命のやりとりを強いるような、そんな武器よりよっぽど姉に似合っていたし、それが似合う姉に相応しい弟で在りたかったからだ。最近では意識しないレベルで笑顔を浮かべられるようになった。
「二人とも疲れてたみたい」
 従軍していたクラトスや、未だ体力の回復が早い若い少年のようにはいかないのだと、騎士の鋭い眼が同行者たちに向けられるのを見て、少年はフォローを入れた。
 騎士の手が口元を覆い、思案するような表情が作られた。やがて低い声が発せられる。
「……食事を作った。お前だけでも腹に入れると良い」
「あなたが?」
 思わず言葉が漏れた。宿代を削る為に、賄いは付けていない。旅中の食事は大概姉が作っていたし、騎士はその性格や身分からして炊事場に立つようには見えなかったのだ。
 しかし言われてみれば、食欲を誘う香りが鼻腔をくすぐっていた。気付いた瞬間、思っていた以上に身体は食料を欲していたようで、危うくお腹が鳴りそうになる。或いはそれを見越して、先に起き出し準備してくれたのだろうか。無口で無愛想な騎士が、命である剣ではなく包丁を片手に立っている姿を想像する。
「じゃあご馳走になろうかな」
 希望を掌に、瞳は真っ直ぐに明日を夢見て進みたい。その為には先ず腹ごしらえかなと思い、少年はもう一度綺麗に笑った。

2003/11/16 初出