天の響

見よ、命の輝き

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 盟主たる少年は様々に言葉を尽くして彼が同志であることを訴えたが、彼は自身が相容れない存在である事を自覚していた。彼は人間であり、他の仲間ならば説明せずとも知覚出来るマナと言うものが、どうしても視えなかったのだ。
 種族に与えられた分と言うべきものなのだと、理解はしている。自らにはどうにもならない事だと。
 しかし今、彼の前にはその越えられない壁を打ち砕く魔法の石がある。
 それは何の変哲もないただの石だった。親指の爪先程の歪な形をしている。路傍にあれば、誰にも省みられる事はなく摩耗してこの世から消えていくだろうと思われた。しかし特別な石。
 アイオニトス。その石はそう呼ばれていた。
 仲間たちが魂の故郷だと語る彗星デリス・カーラーン。遙かな過去、エルフたちがそこから持ち出した鉱石。
「クラトス、気に入ったの?」
 彼──クラトスが指先で石を摘み上げ転がしている事に気付いた少年が、優しく声を掛けた。姉の不調に気が逸っているだろうに、今はその時でないと、努めて心を落ち着けようとしている。
「人間のお前にとってはただの石だろうに」
 そう言った青年は、少年から即座に叱咤され肩を竦めた。
 節だった太い指で玩んでいると只でさえ小さな石は余計にその存在を霞ませ、到底特殊な鉱石には見えない。しかしマナを視る事が出来る種族として生まれた彼らにとっては、周囲のマナを吸い込み煌めくと言うその石がまるで宝石のように輝いて見えるのだろう。
 酷く羨ましく感じた。
 その思いに意識せず表情が動いたのだろうか。
「じゃあそれはクラトスにあげるよ」
 自分は、姉の病を治す為のマナの欠片さえあれば良いから。その言葉を飲み込み、少年は何かを振り切るように首を振った。それからクラトスを見上げると、姉と良く似た控えめな笑みを浮かべる。
「その大きさじゃ、お守りにしかならないだろうけど」
 言外に大した物ではないからと後押しされて、クラトスは手にした石に再度眼を落とした。
 マナを識る石。
「……そうか、では戴こう」
「どうするつもりだ。紐でも通せるように頼むか」
 彼らには同族であるハーフエルフの他に、差別のない社会をと言う声に賛同したドワーフの同志もいる。細工物を得意とするドワーフ族に手掛けさせれば、ただの石に見えるそれも、立派な装飾品となるだろう。
 しかし。
「いや、これで良い」
 訝しげな同志たちの視線を簡潔に断ち切る。
 そのままクラトスは迷う事なくその石を口に含み──驚きに眼を見開いた仲間たちの前でそれを飲み下した。食道を圧迫して通る異物感。途端、叫び声をあげた少年の顔がぐにゃりと溶解する。視界が回る。
「クラトスっ!」
 しまった、毒だったのだろうか。天使化した身体には並の毒は効かない筈だったが、周囲の反応を見てクラトスの意識は一瞬それを懸念する。しかしその意識は維持できなかった。全身の力が抜き取られ目の前が正しい意味で真白く塗り潰された。天と大地とが混ざり合い逆さまに生まれ変わる。宙を泳いだ腕を彼方から誰かが掴んだが、支えきれない──。
 そこで、彼の意識は四散した。

 浄化される。
 温もりが全身を優しく包んでいた。魂が溶けて大気と一体になり、宙に浮遊している感覚だけがあった。
 個と言うものから解き放たれ精神は心地よい一体感に浸され、白い世界を流れていった。明るくも暗くもなく、なにものもそこには存在せず、しかしすべてがある。
 細胞のひとつひとつが歓喜し、世界と溶け合っていく。
 そのまま心を開き温もりに浸ろうとしたところで、意識は不意に己と世界の境界が何処にあるのか不思議に思った。
 確かに自分は此処にいる。確信を持ってそう呟いた。
 拡散していたものが不純物をすべて刮げ落とし、溶け合った感覚はそのままに蘇る。殆ど粒子の段階まで一度溶けたものが、自我を取り戻し始めた意識に併せて徐々に形を取り戻し始める。自分を失っていったのとはまた違う、全身が満たされていく心地よい感覚。
 密やかな流れに逆らい、クラトスは天を向いた。

 こじ開けた視界一杯にまず見えたのは光だった。唐突に与えられた眩しさに瞳を細めてから、クラトスはその光が人の形をしている事に気付いた。
「起きたか。まったく、アイオニトスを飲む馬鹿が何処に」
「……ユアン?」
 光が発したのは、同志であるユアンの声だ。
 咄嗟に彼の言葉を遮り、クラトスは寝かされていた上体を起こすと唖然とする思いで周囲を見渡した。
 それは奇妙な感覚だった。剣士として感じる気配に似ているかも知れない。身体中ですべてのものを感じ、視ているのだ。
 世界が知覚できる。
 万物に宿るマナがそれぞれに異なる光と化して見える。色、明るいもの暗いもの、澄んだもの濁ったもの、薄いもの濃いもの。その輝きの美しさに、クラトスは言葉を失った。
 いや、美しいと感じるのは本来間違いかも知れない。どの光もどこか儚く必死に煌めいている。生命たるマナの源そのものが乏しい為だ。頭では認識していたその事実を、初めて本当に理解出来たのだ。
 夜空を覆う満天の星々の輝きにも近しい光の洪水の中で、クラトスは暫し惚けた。
「クラトス、お前まさか」
 光が身動きした。転じてみると、彼の光は幾らか赤味を帯びている。
「視えるか? 私が」
 その声は静かに低く響いた。
 不思議な問いだ。しかし的確な問いでもある。そして答えを持たないクラトスは、ユアンの顔があるのだろうと思われる虚空に視線を向け沈黙した。
 眼が慣れてきたのだろうか。ぼんやりとした輪郭が浮かび上がってくる。薄い靄が剥ぎ取られ、深い深海の色を宿した瞳がはっきりと見えた。続けて鼻筋を中心とした顔の造作を知覚する力が戻ってくる。確かに彼だと断定出来る程度に判別したユアンの顔は、今は些か血の気が引いているようだった。
 その時、微かな音を立て外側から扉が開かれた。木漏れ日に似た光が差し込む。
「ユアン……あら、クラトスも起きたのね。良かったわ」
 ある程度要領が掴めた為か、今度は最初から盟主たる少年の姉マーテルが入ってきたのだと分かった。
 不可解な病に冒されている筈──痛みを感じない間は平気だと主張していたが──の彼女が纏うマナは、明るく澄み温もりを持っているかのように優しかった。身を浸していたくなる。
「大丈夫だったの?」
 しかし続けて飛び込んできた光に、思わずクラトスは眼を瞑った。
 燦然とした力強い輝き。部屋の隅までが満たされる程の光源。欠けたる翳りがまるでない目映い存在。
 ミトスだ。
 同志たちに道を指し示す盟主が宿したマナは、道標として過ぎる程に明るかった。
 さすがにミトスは聡かった。クラトスの状態が常と違う事を感じ取ると、数歩前で立ち止まり目を凝らす。
「──クラトス? 何だろう、マナの流れが……」
 同じように、クラトスも瞼を薄く持ち上げるとミトスのマナを観察した。太陽のような光の塊に視えたそれは、よく見れば色合いが少しずつ違う薄布を重ねた衣のように不思議と色が混ざり合い、けれどそれが混同はせずに玉虫色のような風合いを出していた。
 そうだ、虹に似ている。
「アイオニトスと融和した、のかも知れん」
 疑問に答えたユアンの声が掠れた。
 鉱物と生物が融和する事など有り得ないと考える方が自然だ。或いはマナの伝導率に優れたアイオニトスと、無機化した存在であるクラトスの間だからこそ成立したのかも知れなかった。
 一方、ミトスにとってはその原因が何であれ確認したい事がある。止まった足を前に運び、ミトスはクラトスの前に真っ直ぐと立った。
「僕が視える?」
 クラトスは咄嗟に顔を背けた。下方から顔を覗き込まれただけなのは頭で理解出来ているのだが、余りに強烈な輝きを持つマナに、未だ力を備えたばかりの眼が耐えられないのだ。
「すまない、ミトス。眩しい」
 返された謝罪の言葉が意味する事に、三人は顔を見合わせた。
「視えてるんだね……」
 それもかなり明確に、とユアンが付け加えた。マナを知覚する力は純血のエルフならば確実に生まれ持つ能力だが、人間と交わったハーフエルフが何処までその力を備えているかは個人差が大きい。例えば古里のエルフ以上にマナの知覚に長けたミトスは、形を取っていない精霊をマナの中に視る事すら出来る。他方、血が遠くなった者はマナの存在を感じる程度しか出来ない。
 吐息のような声がミトスから漏らされた。
「ね、クラトス」
 指し示したのは、マナに彩られ輝く世界。
「世界はとても綺麗でしょう」
 不当に奪われ続け、育む大樹は枯れたと言うのに、それでもマナは温かく限りなく優しい。身体中から心の奥底まで染み込み、この命を祝福してくれる。
 これを見せたかったとミトスは自白し、これを見たかったとクラトスも応えた。

2003/11/26〜12/05 初出