天の響

汝、時を知れ

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 天使としてデリス・カーラーンに生まれた新たな種は、その背に白い羽を宿していた。マーテルは女神として祭り上げられた。彼女を蘇らせる器として選ばれたのは、繁殖率が良く代替わりが早いため遺伝調整が容易い人間だった。そしてユグドラシルは世界から虐げられ続けた同胞ハーフエルフ達に、衰退世界を自由に治める権限を与えた。
 確かに世界は変わった。けれど結局、理想は潰えたのだ。
 クラトスはそう思うと酷く落胆し、けれどそれを非難出来ない己の後ろめたさに首を振った。
 ユグドラシルはかつて英雄と呼ばれていた当時そのままの実行力をもって計画を推し進めてるようだった。と言っても、彼に賛同する事も反対する事も躊躇われたクラトスは、実際のところ余り計画がどう進んでいるのか分かっていなかった。
 これまで、神子と呼ばれる人形化した人間たちが何人かデリス・カーラーンに連れてこられたが、失敗の回数が片手で収まらなくなった頃から、クラトスはそれへの興味も失った。
 無機生命体だけの世界に何の意味があるのだろうか。この調子で何時か世界が再び統合される事はあるのだろうか。
 疑念は燻り続け、けれど今もこうしてクラトスは独りあてもなく歩き続けるだけだ。
 遠方に青い頭が見えた。天使等とは違う、余り見掛けない鮮やかな色だ。何の気もなしにそちらに向かって歩き続け、クラトスはその顔が知覚出来る位置まで辿り着くと、密かに苦笑を漏らした。
 呆れた話だが、そこに居たのはユアンだった。
 彼と顔を合わせるのは久し振りのように思った。と同時に随分と奇怪しな話だが、かつて共に旅をしていた頃が遠い日々のように感じられた。
 ユアンが不意に真っ直ぐにこちらを見つめてきた。自然、クラトスも歩みを止める。その間、抜刀するにも術を唱えるにも不利と思われる微妙な距離。まるで対峙するように向かい合った姿勢で、ユアンは口を開いた。
「世界にどれだけの時が経ったかを知っているか?」
 何時から、と尋ね返すことすら出来ない真剣な表情だった。
 けれど自分には答えようがない問いだ、とクラトスは思った。
 かつての同志としてか或いは師と思ってか、ユグドラシルは人間であるクラトスに、デリス・カーラーンの中における高位を与えた。天使たちの星での不自由ない暮らしが保証され、以来、彼は大地の時間の流れから隔絶されていた。
 大地を懐かしまないと言えば嘘になる。星を眺めるにしても宇宙そらからでは味気なかったし、何より彼は人間だった。この惑星を血族の故郷とするハーフエルフ達とは違う、あの世界に生まれ、大地に足をつけて育った種族なのだ。
 けれどこの身体が抱えたオリジンの封印。そして自身が償うべき罪。それを考えれば、致し方ないことだと。
 そう言い訳して、沢山の事象から眼を背けているのかも知れなかったが。
「流石に……私たちの事を直接知る者はいなくなったか」
 わざわざ問うてくるからには、そう言う意味だろう。
 無機生命体である天使の状態を維持していれば、時の流れから取り残されてしまう。それは理解していたが、現実として突き付けられれば消費した歳月に溜息が出る。
 だが。
「千年だ」
 重苦しいその声はまるで死刑宣告のようだった。
 言葉を失い、クラトスはユアンの顔をただ見つめ返した。注意して見れば、その面にあるのは憤りだった。力のない己に対する、激しい悔しさだった。
「その間、我らは何も結果を成せなかった。ただ時間を浪費したのだ」
 反論の余地もない事実だった。
 確かに計画は進んでいる。しかし、ただ進んでいるだけだ。ユアンの言の通りならば、既に地上では千年の時が流れ、だと言うのに二つの世界で衰退と繁栄が繰り返されるばかり。マーテルは眠り続けている。
 けれど、自分たちは本当に計画の実現を願っているのか。
「──?」
 その時クラトスは唐突に、ユアンの右手が左手の指に填めた指輪にあてられている事に気付いてしまった。
 彼は、千年王国計画の事を言っているのではなかった。
 動くつもりだ。反対する為に。阻止する為に。
 そう思い至った瞬間、クラトスは愕然とした。
 ユグドラシルのやり方が善でない事は分かっている。理想を失い、マーテルの遺志すら歪めたあの恐ろしい計画を、このまま野放しにしていてはいけないのだろう。
 それが分かっていながら、時間だけが過ぎた。
 否、失った歳月を振り返っているだけでは意味がない。少なくともユアンは動くだろう。良くも悪くも彼は理想に殉じる闘士だ。彼には曲げられないマーテルの遺志もある。
 自分は──どうする?
 その問いは空洞のように空いているばかりだったクラトスの胸の中で、消せない波紋を広げた。

2003/09/23 初出