天の響

林檎

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 四大天使の一人が事実上の離反──
 種族の狭間で辛き生を続ける彼等にとって、最大の希望であり絶対なる天の機関。その最高幹部の堕天は、激しい衝撃と同時に幾ばくかの得心とをもって五聖刃に受け入れられた。
 所詮劣悪種か、と言うのが彼らに共通した見解だった。
 人の身でありながら重用され、挙げ句偉大なる指導者を裏切った罪深き天使など、命令さえなければ八つ裂きにしてやるところだ。
 けれど彼らの指導者から下された捕縛命令には、必ず生かして、と言う注釈があったのだった。
「殺しちまえんなら話は簡単だがな」
 通信機の前でだらしなく頬杖を付き、マグニスは海を隔てた大陸に向かってぼやきを零した。画面上で対するイセリア牧場の主フォシテスは生真面目な性格通り、背筋を真っ直ぐに伸ばした直立不動の姿勢でいる。その半月の形の眉が先端を持ち上げた。
「ユグドラシル様の勅命は絶対だ」
 彼らにとって、それは当たり前過ぎる真理だった。なによりマグニスとて本気で言った訳でない。管轄範囲で発見出来れば向かいたいと思うが、相手は堕ちたと言え天使。考えるだに忌々しい事だが、殺す事よりもこちらが殺されないように気を付けねばなるまい。
 五聖刃と称される同僚たちの中で、頭脳戦の面において最も蔑まれていると自覚するマグニスにも分かるその計算を、しかし度外視しているような者がいた。
「随分とクヴァルが躍起になってるらしいじゃねぇか」
 思い出した序でにそのアスカード地方の牧場主の名をあげてみたが、実際にマグニスがそれを感じたわけでない。彼の牧場とは陸続きだったが、高い山脈に遮られ彼方の動向は見えないのだ。
 故に、フォシテスが頷きを返した事の方に驚かされる。
「そのようだ。私にイセリア方面まで兵を伸ばす許可を取ってきた」
 それで構わないのだろうか。分からず、マグニスは唸り声をあげた。
 フォシテスのやり方は自分とだいぶ違うところがある。彼の牧場が間引き量を超える事はないし、指導者の言に従い神子の成長を待つためとは言え、人間と調停を結んでみせたりするのは他の牧場主では決して有り得ない事だ。それでいて彼が決して軟弱者でない事は、英雄と称えられる過去の業績からも分かる。事実、マグニスも彼の事は信頼していた。
 英雄フォシテス。その名はディザイアンにとって、指導者ユグドラシルに次ぐハーフエルフの光だ。
 その彼が出撃せず、管轄外のクヴァルがしゃしゃり出る現状は、マグニスにとって理解出来ない境地だった。別段年嵩の同僚を嫌っている訳でないが、陰湿で回り諄いやり方は彼の好むところでない。
「元々奴の不始末もあるのだ。やらせてやれば良い」
 エンジェルス計画。フォシテスの口唇がそう形取った。
 発案者であり実行者でもあるクヴァルの下から、成功例をその身に宿したまま逃げ出した人間の女。それが忌むべき天使と共にあるのだ。
 或いは女こそが、主を裏切る禁断の果実を差し出した張本人であるのかも知れなかったが。
「確かA012だったか。その培養体ってのは」
 物を覚えておくのは苦手だ、と密かにマグニスは舌を打った。これを間違わず配下に伝えねばならない。
 第一自分の管轄内で照合が一致した場合はどうするのか。やはりクヴァルに引き渡すのが良いのだろうか。決めかね首を傾げたマグニスは、画面の向こうの相手もまた何か考えているらしい様子に気付いた。
「なんだ?」
「いや、ユグドラシル様の信厚い天使を誑かし堕天させる程の女とは、どんな者かと思った」
 そして必ず訪れる結末を知っていた筈なのに、楽園に実を結んだ果実を取った天使についても。
 ディザイアン階級と言うものは、五聖刃の長を除けば上位機関の天使と面識がないのが普通だ。他聞に漏れずフォシテスもマグニスも、裏切りの天使については名しか知らない。
 幾ら考えても埒が明かない疑問を、マグニスは一刀両断に切った。
劣悪種ぶただ」
 女も天使も。
「……違いない」
 呟き、フォシテスは眼帯に覆われていない方の眼を伏せる。拍子に走った通信機の揺らぎで、その表情は微かに笑ったように見えた。否、実際笑ったのだ。今度は彼が何を考えたのか分かり、マグニスは鼻を鳴らした。
 ──二人が分け合った果実は、甘かったのだろうか。
 それは人間でない彼らにとって、永遠に分かろう筈もない問いだった。

2003/10/19 初出